鉄道敷設競争の渦中へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 12:51 UTC 版)
「斉昂軽便鉄路」の記事における「鉄道敷設競争の渦中へ」の解説
このようにあくまで地元のためのローカル線として細々と営業を続けていた斉昂軽便鉄路であったが、思わぬことから列強の利権獲得競争の渦中に放り込まれてしまう。 1920年代末頃から、満州では列強に奪われた利権を取り戻す政治・軍事運動である「利権回収運動」が起こり始めていた。これを満州を実効統治していた奉天軍閥が支持し、さらに自分でも列強の利権を阻害する行動に出ることで、日本やロシアといった列強との対立を深めるようになっていたのである。鉄道もその舞台となり、奉天軍閥は「東三省交通委員会」を作って中国資本の鉄道を敷設し始めた。 そんな緊張の中、にわかに注目されたのが斉昂軽便鉄路である。不完全なローカル線ではあるが、この路線は中東鉄路(東清鉄道の後身)と大都市・斉斉哈爾を結んでおり、幹線の一部として将来的に活用可能であると考えられたのである。 そこで最初に動いたのが、ソビエト連邦であった。中東鉄路の持ち主でもある同国は、当時日中合弁で運行されていた四平街-洮南間の四洮鉄路に接続する形で、洮南-斉斉哈爾間の新鉄道建設工事が進んでいるのを牽制するため、先に斉斉哈爾から黒竜江省を横断して黒河に至る路線を計画。1925年にその足がかりとして、斉昂軽便鉄路に経費を出すことを条件に中東鉄路と同じ5フィートへの改軌を交渉し始めたのである。明らかに当線を買収してしまおうという腹づもりでの行動であった。 この路線計画が実現してしまえば、長春で行われていた北満の貨物輸送の中継は斉斉哈爾で行われてしまい、南満州鉄道を通らないでも済んでしまうことになり、日本は大いにあせった。さらに鉄道建設においても、途中で中東鉄路と交叉する部分で抗議に遭い、1926年に洮南-昂昂渓間のみが部分開業しただけとなってしまったのである。 ところが蓋を開けてみると、この新線部分の営業成績が極めてよく、昂昂渓・斉斉哈爾周辺の貨物は全て南満州鉄道側、すなわち日本側に流れることになった。一方当地域でのお株を完全に奪われてしまった中東鉄路、そしてソビエト連邦は面目が丸つぶれとなってしまった。 こうしてソビエト連邦が離れた後、斉昂軽便鉄路に接近したのが奉天軍閥であった。1928年6月4日、奉天軍閥の長である張作霖が関東軍によって暗殺(張作霖爆殺事件)され、その子の張学良が後を継いで以来、奉天軍閥は「反日」を露骨に打ち出し始めていた。鉄道政策においてもそのために南満州鉄道を包囲するような路線網を計画しており、その一部として斉昂軽便鉄路の持つ昂昂渓-斉斉哈爾間が必要になったのである。 今度は交渉が成立し、同年12月に中東鉄路の抗議を無視して同鉄路をまたぎ、昂昂渓-斉斉哈爾間を開通させると同時に、斉昂軽便鉄路を将来的に改修する計画をもって事実上買収したのである。
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