インドシナ総督 (1902-1908)
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「ポール・ボー」の記事における「インドシナ総督 (1902-1908)」の解説
当時の外相テオフィル・デルカッセは植民地において自分の意のままに働く総督を望み、デルカッセの支持を受けて1902年10月、ポール・ボーはフランス領インドシナ総督(東洋総統全権大臣)に任命された。ボーがフランス領インドシナに到着した1903年2月28日は、前総督ポール・ドゥメールの名前を冠したハノイの「ドゥメール橋」開通の日でもあった。「成泰帝臨席のもと、二人の総督はたくさんの群集を前にものものしく振舞い、このフランス植民地の傑作は見る者を魅了した」と当時の新聞記者は伝えている。 1901年に近々発足する新しい総督府の面々が会合を持った。この会合で次期総督ポール・ボーは、自らの植民地経営の理念を「世界規模の政策」と呼び、フランスが植民地の未来を「世界規模の政策 « politique mondiale »」へと導いていかなければならない、とした。そして、この世界観は各植民地からそれぞれの土地が供出しうるものを供出できるだけ搾り取ろうとする単純な考え方よりもはるかに野心的である、とした。前総督ドゥメールは後者の単純な植民地経営モデルに基づいて、常にヨーロッパ人支配地域の最大化を図った。ボーによる政策転換は、フランス植民地の経済発展に有利に働いたが、発展の道筋から外れた土着の人々にはごくわずかな恵みしか、もたらすことがなかった。 それでもこの路線は、首相デルカッセと、1905年から海外県海外領土省大臣(フランス語版)となったエティエンヌ・クレメンテル(フランス語版)に支持されたため、ボーは関連政策の立案を求めた。ボーはある意味で、この戦略が海外植民地を精神的に征服することになると考えていた。植民地体制の濫用と戦うことで、土着の人々がその土地で活躍する機会を増やすことができる。現地人の雇用が促進される間に、教育網と公衆衛生が向上する。このようにして1906年にポール・ボーは、統治技術を学ばせるために40人の儒教知識人をフランスに留学させる制度、「インドシナの恒久なる使命 « mission permanente indochinoise »」を創設した。 この全般的な政策は、ボー総督が確信に基づいて擁護する共和思想を植民地にも移入しようという強い意思の表れであったが、比較的に成果に乏しいものとなった。また、この政策はインドシナ在住のヨーロッパ人、特に多くの事業に携わる地域エリートの怒りを買った。この改革が彼らの植民地におけるアドバンテージを脅かすものとして捉えられたためである。強固な反対派となった彼らは、パリの有力な支持者らに利益を供与することにってポール・ボーを1908年9月にインドシナから追い出すことに成功した。
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