ポール・ボー
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ポール・ボー(仏: Paul Beau、1857年1月26日 - 1926年2月14日)は、フランスの外交官、政治家。義和団事件における清国との講和交渉にフランス全権として赴く。1902年から1908年までフランス領インドシナ総督を務めた。それまでの植民地経営を転換し、行政組織の変革、インフラ投資を行った。1911年から駐スイス大使。第一次世界大戦の戦後処理交渉でもフランス代表として意見を述べた。
注釈
- ^ 戸籍謄本による。父の名は未定のまま残されており、母は、Jeanne Alice Laurent という名。
- ^ "président du Conseil":第三・四共和政時代のフランスの首相。閣僚評議会議長。
- ^ 訳注:要するに在イタリア・フランス大使館の秘書官になるという意味。
- ^ なお、ボーに代わってインドシナに赴任したアントニー・クロビュコウスキは、ベルギー大使についてもボーの後任となった。二人は考え方や経歴で共通点が多かった。クロビュコウスキはのちにボーをレジオンドヌール大十字勲章に強く推薦した。
- ^ ベルギー貴族。フランス文学研究家。バルザック研究で名高い。1907年歿。
- ^ スイス軍の将校らがドイツ軍と内通していたことが露見したスパイ事件。
- ^ 歿年は1927年としている文献もあるが[1][2]、これは誤り。
出典
- ^ Corfield 2014, p. 20.
- ^ Tucker 2011, p. 98.
- ^ a b L'Homme libre 1926.
- 1 ポール・ボーとは
- 2 ポール・ボーの概要
- 3 栄典
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