ヨーロッパ諸国の大使歴任 (1908-1921)
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「ポール・ボー」の記事における「ヨーロッパ諸国の大使歴任 (1908-1921)」の解説
インドシナ赴任の終了によってポール・ボーの政策が否定されたわけではないことは、彼が短期間の休暇を挟んでまもなく、ブリュッセルにフランス代表として派遣されたことでわかる。ところがブリュッセルでは、保守的なカトリック主義に固まった上流階級になじむのに苦労することとなった。独り身の、世俗主義者若しくはプロテスタントといったポール・ボーの人物像が障壁となって、課せられた任務に見合っただけの成果を得ることができなかった 。 ボーはブリュッセルの大使館(フランス語版)で3年間を過ごし、その間、1907年に亡くなったロヴァンジュール子爵(フランス語版)から提供されたブリュッセル中心部の敷地に、新しい大使館を建設した。設計はフランスの建築家ジョルジュ・シュダンヌが行った。こうしてブリュッセルの近代化に後々まで残る貢献を果たしたのち、1911年7月、駐スイス大使に任命され、ベルンに赴任した。第一次世界大戦の勃発はスイスで知ることとなった。スイス連邦は中立国であったため、交戦国同士が接触しうる特権的な場となり、スイス自身も紛争当事国となるべきかならぬべきかで揺れていた。 フランス本国から通常の指示を受けたものではなかったが、ボーはスイスの新聞に寄稿してフランスへの支持を世論に訴えかけた。その内容は1915年11月にアリスティード・ブリアンに説明したものであるが、フランスの意見をこの国に広めて「魅力の中心」を作り上げることで、当地のフランス語話者地域で好意的に受け止められていたドイツのプロパガンダに対抗しようとするものであった。また、外交手腕もないわけではなく、スイスの歴代首相と良好な関係を保つことができた。特に、戦争により交易が途絶えた際にはスイスの物資を供給してもらうことを彼らに約束させた。 1915年12月、ボーは有名な大佐事件(フランス語版)が起きることを知り、スイス連邦が三国協商側に戻ってくるか、少なくとも中立を維持する可能性が高くなることがわかった。大使館の調査室から情報を得て、フランス人は、スイス軍(実際にはドイツ語を話す二人の将校であった。)がオーストリア大使館とドイツ大使館に、三国協商軍、特にロシア軍の情報を常時もたらしていることを速やかに暴露した。醜聞の発覚をうまく利用してフランス人は、スイスと中欧の二つの帝国との離間に成功した。 フランス政府に対して便宜を図る約束が得られる兆しがある中、ポール・ボーは1918年2月まで職責を全うした。後任のスイス大使は、ピション内閣で外相を務めたポール・デュタスタが務めた。
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