第一次世界大戦の勃発
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「ルクセンブルクの歴史」の記事における「第一次世界大戦の勃発」の解説
第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍はシュリーフェン・プランに従い、1914年8月2日にルクセンブルクへ侵入した。4日、ドイツはその非を認め、これはあくまでも作戦上のものであってルクセンブルクに敵意があるわけではないと説明した。状況に変化はなかったが、ドイツはルクセンブルクの政治には最小限でしか干渉しなかった。このドイツ軍の侵入はルクセンブルクにとっては突発的なことであり中立を侵害していると抗議したが、それも受け入れられず、結局ルクセンブルク政府はなんとか中立の維持に努めた。 ベルギーはルクセンブルク併合の野心を抱いており、亡命中であったベルギー外務省は1839年に失った領土を取り戻して「大ベルギー」を形成することを目論んでいた。しかし、ベルギー国王アルベール1世を含むベルギー政府らは検討の結果、領土要求を先送りすることを決定。フランスをはじめとした列強各国への牽制の意味を含めた上でルクセンブルク大公国の「自国領土への復帰」の表明を1915年6月に行い、さらに連合国へ主張の正当性について宣伝を行うにとどめた。 一方でフランスはルクセンブルクが戦前と同じ地位にいることを許すべきではないと考えていたが、国内でも意見が割れたため、フランス首相アレクサンドル・リボーはベルギーに対し、ルクセンブルクはフランスの戦争手段ではないと秘密裏に通告、これは『リボー宣言』とされた。 戦争直前の1914年6月、ルクセンブルクでは国会選挙が行われていたが、その結果、左翼連合(自由党、社会民主党)とカトリック党が主導権争いをしており、ルクセンブルク政府はこの危機に対して挙国一致体制で臨むことができず、ルクセンブルクの舵取りは24歳のマリー=アデライード大公に委ねられることとなった。この当時、ルクセンブルク政界はドイツとの関係維持に肯定的であったため、マリー=アデライードもそれに倣い、1914年9月にはルクセンブルクを訪れたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも会見を何度か行った。そして1915年、アデライードは国会を解散、これにより右派が勢力を増したが、これは左派の敵愾心を募らせただけにすぎなかった。 1918年11月11日、第一次世界大戦が終結すると、左派の「労働者・農民ソヴィエト」グループが共和国宣言を行ったが、これは鎮圧された。そしてマリー=アデライード大公に敵対心をもっていた左派は国会において大公の退位を求める動議を提出したが、これはなんとか僅差で否決された。さらに連合国もマリー=アデライードが親独的であったため、フランスなどはルクセンブルク外相との会見も拒否していた。1919年1月、左派はクーデターを起こして人民委員会を樹立、共和国宣言を行った。これに対し右派もマリー=アデライード大公を支えることができなくなったために退位を進言、妹のシャルロットが大公に就任した。さらにこの事態によりルクセンブルクの秩序が乱れることを恐れたフランス軍が決起軍を解散させたため、このクーデターは失敗に終わった。さらに左派はシャルロットの即位も阻止しようとしたが、この時は国会で大差で否決されたため、シャルロットは大公に即位、君主制批判も和らいだ。そして政府は君主制か共和制かを選択する国民投票を行うことを宣言、これにベルギーが介入したが、ルクセンブルク国民らはデモを行い、「ルクセンブルクはルクセンブルク人のもの!」と宣言した。 経済面では1918年12月、連合軍の指導によりルクセンブルクはドイツ関税同盟から離脱させられたが、このためにフランスへの依存が拡大した。
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