ドイツ軍の侵入とは? わかりやすく解説

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ドイツ軍の侵入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 04:08 UTC 版)

ナルヴィクの戦い」の記事における「ドイツ軍の侵入」の解説

1940年3月1日ドイツ総統であるアドルフ・ヒトラーノルウェー侵攻命令ヴェーザー演習作戦 (Unternehmen Weserübung) と命名された。この作戦にはドイツ海軍大部分参加しノルウェー攻略にあたる艦艇6つグループ分けられた。 ナルヴィク攻略にあたるグループ1は駆逐艦ゲオルク・ティーレ、ヴォルフガング・ツェンカー、ベルント・フォン・アルニム、エーリッヒ・ギーゼ、エーリッヒ・ケルナー、ディーター・フォン・レーダー、ハンス・リューデマン、ヘルマン・キュンネ、ヴィルヘルム・ハイドカンプ旗艦)、アントン・シュミットで構成され、フリードリヒ・ボンテ代将指揮した。各艦にはエデュアルト・ディートル少将率いる第139山岳猟兵連隊陸軍将兵が約200名ずつ、合計1,900名が乗っていた。 グループ1は4月6日夜にヴェーザーミュンデから出航しトロンハイムへ向かうグループ2や巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウとともに北上した。その途中遭遇したイギリス駆逐艦グローウォームを撃沈した4月8日夜にロフォーテン諸島沖で2隻の巡洋戦艦別れてグループ1ヴェストフィヨルドを北上し4月9日未明ナルヴィク通じオフォトフィヨルド入っていった。ただ、途中嵐の中を航行する際に特に燃料消費大きかったエーリッヒ・ギーゼは、燃料節約のため遅れていた。オフォトフィヨルドにはいったグループ1はノルウェー監視艇Michael SarsとKeltに発見された。ノルウェー監視艇は、9隻のドイツ駆逐艦オフォトフィヨルド入った報告したフィヨルド途中のラムネース水道には沿岸砲台があると思われていたためハンス・リューデマンとアントン・シュミットがその攻略向かったが、実際そのようなものは存在しなかった。フィヨルドの外へ向かっていたノルウェー監視艇Senjaがこのドイツ駆逐艦発見したが、誤ってイギリス駆逐艦報告した後でドイツ駆逐艦修正されたが、その通信は届かなかった。 続いてボンテはヴォルフガング・ツェンカー、エーリッヒ・ケルナー、ヘルマン・キュンネの3隻をヘリヤンクスフィヨルドのエルヴェゴール占領に向かわせ、ヴィルヘルム・ハイドカンプとゲオルク・ティーレ、ベルント・フォン・アルニムを率いてナルヴィクへと向かった。もう1隻の駆逐艦ディーター・フォン・レーダーはオフォトフィヨルド入り口哨戒当たっていた。 ナルヴィクには、ノルウェー海軍ノルゲ級海防戦艦アイツヴォルとノルゲ停泊していた。ドイツ駆逐艦によるフィヨルド侵入伝えられていたため、海防戦艦では戦闘準備整えられていた。4時15分に吹雪の中からドイツ駆逐艦現れると、港外停泊していたアイツヴォルは発光信号誰何したがドイツ駆逐艦からの返答はなかった。そのため警告射撃行い停船命じ信号旗掲げたこの後ヴィルヘルム・ハイドカンプ停止しゲルラッハ(Gerlach)中佐信号手がアイツヴォルへと向かったゲルラッハはアイツヴォルのヴィロック(Willoch)艦長会い降伏要求した。ドイツ軍の侵入者に対して抵抗するよう命じられているため上官相談する必要があるとヴィロックは述べた。ヴィロックは上官連絡取り明確な攻撃命令受けた。それを告げられゲルラッハは、アイツヴォルから離れる赤色信号弾発射した。この時、ヴィルヘルム・ハイドカンプはアイツヴォルから700m離れた場所にあり、魚雷発射管はアイツヴォルのほうに向けられていた。ボンテはアイツヴォルからの攻撃があるまで攻撃待とうとしたが、アイツヴォルが体当たり試みようとしているように見えたこともあり、ヴィルヘルム・ハイドカンプ艦長Hans Erdmenger中佐魚雷発射命令求め、ボンテも許可したヴィルヘルム・ハイドカンプは4本の魚雷発射しその内2本ないし3本命中した。アイツヴォルは弾薬誘爆思われる爆発起こし沈没した4時37分のことであった艦長以下177人(または115人)が死亡し生存者は8人であった一方、ゲオルク・ティーレとベルント・フォン・アルニムは停船せず、港内入って兵員上陸させ始めた港内入ってくる2隻のドイツ駆逐艦ノルゲから視認されたが、すぐに中に消えてしまった。続いてアイツヴォルが爆発した音が聞こえたが、やはり何も見えなかった。4時45分に再びドイツ駆逐艦確認できると、ノルゲのペール・アスキム(Per Askim)艦長砲撃命令したノルゲ800mの距離で、21cm砲弾5発と7から8発の15cm砲弾を発射した命中しなかった。ベルント・フォン・アルニムが12.7cm砲で応射したが、こちらも命中しなかった。続いてベルント・フォン・アルニムが7本の魚雷発射した。2本がノルゲ命中しノルゲ転覆して沈没した。アスキムを含め96人が救助されたが、105人が死亡したナルヴィク上陸したドイツ軍により占領された。 ラムネース水道分派された駆逐艦はそこに兵員上陸させたが、沿岸砲台が無いとわかると再び兵員収容しナルヴィクへと向かったナルヴィク占領成功すると、ドイツ駆逐艦帰路のための燃料補給開始した。本来なら事前に2隻のタンカー到着しているはずであった。しかし、ナルヴィクにはヤン・ヴェレン(ドイツ語版)(Jan Wellem、11,776トン)しか到着していなかった。ヤン・ヴェレンは4月6日ソ連領内にあったドイツ基地Basis Nord出発し4月8日ナルヴィク到着していた。他のタンカーカテガット(ドイツ語版)(Kattegat、6,031トン)は4月3日ヴィルヘルムスハーフェン出発したが、イギリス機雷敷設影響受けて航路変更したため到着しておらず、のちの4月10日朝にノルウェー哨戒艇ノールカップ (Nordkapp) に発見され自沈。ヤン・ヴェレンは元々は捕鯨母船であり、給油能力低かった給油同時に2隻までにしか行えず、しかも十分な量を給油するのに8時間要した

※この「ドイツ軍の侵入」の解説は、「ナルヴィクの戦い」の解説の一部です。
「ドイツ軍の侵入」を含む「ナルヴィクの戦い」の記事については、「ナルヴィクの戦い」の概要を参照ください。

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