第二次世界大戦からパリ占領まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
「フランスの歴史」の記事における「第二次世界大戦からパリ占領まで」の解説
詳細は「西部戦線 (第二次世界大戦)」および「マジノ線」を参照 1939年、4月にイタリアがアルバニアの併合を強行し、ドイツは前年にオーストリアを併合し次いで、ズデーテンラントを併合されたチェコスロヴァキアの残り全土を占領、そしてポーランドに対して旧プロイセン領であったダンツィヒ返還を要求した。当時のフランス世論ではここでいよいよ対独戦争の可能性が強くなる。8月23日にドイツがソビエト連邦と独ソ不可侵条約を結び、9月1日にポーランド侵攻が始まると、翌2日にはフランスで総動員令が発令され、11月3日に対独宣戦布告を行なった。ドイツのポーランド侵攻から、翌年5月までの間は、独仏国境で目立った戦闘は行われず、独仏両軍はライン河を挟んで釣りをしたり、フランス兵がサッカーに興じているのを、ドイツ軍が見物し歓声を送るなど、牧歌的な光景が見られたこの時期は今日では「奇妙な戦争」と呼ばれている。 開戦時、フランス世論の多くは、独仏国境に敷かれたマジノ線を希望とし、同じような構想から作られたドイツのジークフリート線に対抗できると信じられていたが、1939年末にドイツがポーランドをおおよそ制圧すると、翌1940年5月10日に中立国であったベネルクス三国を経由することでマジノ線を迂回し、フランスに侵攻する。また少し遡ること、3月には冬戦争の勃発への無為無策を糾弾され、ダラディエ内閣が倒閣し、後継のレノー内閣では宥和政策に反対し、徹底抗戦を訴えるも、軍の防衛戦略上の都合、そりの合わないダラディエを国防大臣として入閣させねばならず、さらに英仏合同軍司令官であったガムランの更迭問題が紛糾し、さらにイギリスではチェンバレン内閣が総辞職するなど、国防上の一大事とは裏腹に国内では政争に揉まれ、5月13日には国境が突破され、本土への侵入を許してしまう(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。5月18日にはレノー内閣が改造され、レノー自身が国防大臣を務め、ダラディエは外務大臣に転じ、副首相にはペタンが入閣した。6月5日にはさらに内閣改造が行われ、ダラディエを外相から解任し、レノーがそれを兼任するも、外務次官に休戦派のボードゥアンを入閣させたことから自縄自縛に陥り、すでに国内へのドイツ軍の侵入が日に日に進んでいく中でも、政治的な混乱はなお続いた。10日にはイタリアも参戦し、こうした事情を受け政府はパリを去り、トゥールへと拠点を移し、14日には無防備都市宣言がなされたパリにドイツ軍が入城した。6月16日にはペタン休戦内閣が発足し、17日に駐在スペイン大使を通じてドイツに降伏を申し入れ、22日にはかつて第一次世界大戦の休戦協定が結ばれたコンピーニュの森で独仏休戦協定が締結された。これにより、パリを含むフランス北部はドイツ、サヴォイなど南部の一部はイタリアによって占領され、残りの自由地区にはペタンを元首とするフランス国(ヴィシー政権)が設立された。またそれを受け翌18日には陸将であったシャルル・ド・ゴールを通じてロンドンで対独レジスタンスを訴え、自由フランス軍が組織された。
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