ドイツのポーランド侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 07:15 UTC 版)
「スタニスラウ・ソサボフスキー」の記事における「ドイツのポーランド侵攻」の解説
8月29日、ドイツがポーランドへ侵攻することが濃厚になると、ポーランドは動員計画を発動、第21歩兵連隊 はワルシャワの第8歩兵師団に所属しが、ドイツ軍によるポーランド侵攻作戦発動直前、部隊はワルシャワ要塞からチェハヌフへ異動、そこでモドリン軍(en:Modlin Army)に所属、戦略的予備とされた。 9月2日、師団はムワヴァ(en:Mława)へ移動、翌日早朝にはムワヴァでドイツ軍と戦闘に入り、プシャスニシ(en:Przasnysz)と第2目標は確保したが、その以外の部分はドイツ軍が包囲、占領した。その後、ソサボフスキーは部隊にワルシャワ方面へ撤退するよう命令した。 9月8日、部隊はモドリンの森に到着し、第8歩兵師団は再編成されたが、第21歩兵連隊はユリウス・ヅラウフ(Juliusz Zulauf)将軍配下に配属された。数日間、防御戦を行った後、部隊はワルシャワへ移動、9月15日に到着した。 到着と同時に、連隊はワルシャワの東部、グロフヴ(en:Grochów)地区、プラガ(en:Praga)地区をドイツ第10歩兵師団から防衛するよう命令された。ワルシャワ包囲戦の間、部隊は兵数、火力で劣ったが、なんとか防衛を果たした。9月16日、プラガにおける攻撃が始まると、部隊はドイツ第23歩兵連隊を撃退、撃破した。 この成功を受けて、ソサボフスキーはグロフヴで戦う部隊全体の指揮を取るよう命令された。毎日続くドイツ軍による攻撃と爆撃にも関わらず、ソサボフスキーはなんとか犠牲者を抑えながら、クラフヴを維持した。1939年9月26日、ソサボフスキーはドイツ軍の攻撃を撃退したが、これが最後となった。翌日、ワルシャワは降伏した。9月29日、ワルシャワのポーランド将兵がドイツ軍の捕虜収容所へ向かう前に、ユリウス・ヅラウフ将軍はソサボフスキーと第21歩兵連隊にポーランド軍最高の勲章であるヴィルトゥティ・ミリターリ勲章(en:Virtuti Militari)を与えた。
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