捕虜収容所
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捕虜収容所(ほりょしゅうようしょ、英: prisoner-of-war camp、略語:POW camp)は、戦時中に交戦団体により捕らえられた敵の兵士を収容する場所である。
注釈
出典
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捕虜収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/16 08:18 UTC 版)
「ロング島 (フィニステール県)」の記事における「捕虜収容所」の解説
第一次世界大戦の勃発後の1914年8月23日に1500人を乗せた船「ニューヨーク」が収容された。このうちドイツ人が400人、オーストリア人は250人がいた。同年9月2日には第2戦隊によって拿捕された「ニュエ・アムステダム(Nieuw Amsterdam)」がブレストに回航される。同年9月23日、収容先のクロゾン要塞とブレストから1500人を順次移送する事となり、11月5日に収容施設が完成し運用される。最後の捕虜は1919年12月31日に釈放される。 第二次世界大戦中の1940年から1944年まではナチス・ドイツ軍が収容所跡地に対空部隊を配置した。また、施設の記念碑は破壊された。
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捕虜収容所
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1945年2月の降伏後、当初1週間ほどフォート・カニングに抑留された後チャンギーの捕虜収容所に移され、その間パーシバル中将・ヒース中将ら英軍の司令官・参謀将校との連絡将校、通訳を務めた。ワイルドはこの頃から、日本軍の捕虜の取扱いに戦争犯罪に該当する行為がないかを確認し、また連合軍捕虜から情報を収集していた。 1942年3月13日、チャンギーからリバーヴァレー通りの収容所へ移り、同年12月までの約8ヶ月間、リバーヴァレー通りとハヴェロック通りの合同収容所の副旅団長兼通訳、連絡将校として作業所の将兵に付き添った。 1942年12月、収容所の捕虜5,000人とともにチャンギーに戻る。チャンギーでは連合軍捕虜と日本軍の意思疎通の改善をはかり、結果1943年4月に至るまで平穏に過ごした。そこで、タイから病気に罹り後送されてきた捕虜から泰緬鉄道建設の過酷さについて聞いていたワイルドは、F隊とともにタイに行くことを決めた。
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捕虜収容所(3000点)
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「ダウボーイ」の記事における「捕虜収容所(3000点)」の解説
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捕虜収容所(惑星ケセル)
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「スター・ウォーズ 出撃! ローグ中隊」の記事における「捕虜収容所(惑星ケセル)」の解説
救助されたウェッジの情報で、他にも多数の反乱軍兵士が囚われていることが判明。クリックス・メイディンの部隊が彼らの救助に向かった。今回ローグ中隊は、クリックスの部隊の護衛として出撃する。
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捕虜収容所
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『EOJ』特有のシステム。戦闘中に主人公かパートナーのHPが尽きるとゲームオーバーとなるが、パーティメンバーが敗れた場合はわずかなペナルティが発生するだけである。戦線を離脱したユニットは捕虜収容所に収監され、戦闘終了後に簡単な救出ミッションを行うことで戦線に復帰させることができる。また、この救出ミッションは強制ではなく、キャンプフェイズであれば任意のタイミングで行うことができ、遅滞によるペナルティも存在しない。
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捕虜収容所
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その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ”の言動には注意しろと、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし俘虜となっても舩坂の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。さらに、船坂は2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長(F. V. CRENSHAW, 生没年不詳)に阻止され失敗。グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国する。
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捕虜収容所
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太平洋戦線で捕虜となりアメリカ本土に連れてこられた5,000人を超える日本人捕虜がまず向かったのはエンジェル島だった。フォート・マクダウェルのなかにある四階建ての兵舎には三段ベッドがずらりとならび、医療体制も整い、食事メニューも豊かで、常時500名の捕虜を収容することができた。血みどろと玉砕の戦場から遠く離れ、サンフランシスコの街並みとゴールデン・ゲート・ブリッジをくぐりぬけてやってきた捕虜ひとりひとりに、尋問官が時間をかけてむきあい、尋問官が尋問にことさら暴力を使う必要はなかった。ここで重要情報を持っている捕虜かどうか捕虜の情報的価値を品定めされ、選ばれた捕虜は、そこから70kmほど離れたトレイシーの捕虜尋問所におくられた。選別に漏れた捕虜は、ウィスコンシン州のフォート・マッコイやルイジアナ州キャンプ・リビングストンなど、本土9カ所の他の捕虜収容施設に移送された。そうした収容施設は米軍基地内にあるため、捕虜は米軍の食事や医療に準ずる対応をうけ、例えばフォート・マッコイでの捕虜収容所では収容所は被収容者の自治に任され、映画鑑賞や日本式の浴場まで完備されていた。 こうした捕虜の尋問と通訳や翻訳にあたったのは、米軍が養成した語学将校と日系人強制収容所から入隊した二世らを含む語学兵であった。1941年6月、海軍は秘密裡にカリフォルニア・バークレー校とハーバード大学に海軍日本語学校を開設し、一方、陸軍は1941年11月にゴールデン・ゲート・ブリッジ南側のプレシディオにあるクリッシー陸軍飛行場内にMIS語学学校を設立した。エンジェル島から7kmも離れていない場所である。また、海軍日本語学校の学生が日本に滞在経験のある大学卒の白人が主流であったのに対し、陸軍の MIS は日系二世の入学を積極的に受け入れ、初年度の学生60人のうち、58名が日系アメリカ人青年であった。 オレンジ郡に住んでいた沖縄県系二世のピーター・オオタはコロラド州の日系人強制収容所からアメリカ軍に入隊し、語学兵としての研修を受けた。配属された先は、太平洋戦線ではなくエンジェル島であった。そこで彼は数十名の沖縄人少年兵が捕虜として連れてこられているのに驚く。沖縄戦で捕虜となって屋嘉捕虜収容所に送られた者の内、学徒兵を含めた沖縄出身の兵士は多くハワイのホノウリウリ収容所に送られ、そこでフィラリア検査の後、一中通信隊の安里祥徳や神谷依信は「ボーイ」組とよばれ、ハワイからシアトルへ、そこから列車移動してエンジェル島に収容された。エンジェル島でウィスコンシン州フォート・マッコイ収容所から移送された沖縄人捕虜と合流し、沖縄に再び送還されたという。沖縄戦の後方で米軍は着々と米軍基地を建設していくが、沖縄戦の兵站や基地建設の労働力として不向きと思われる少年兵たちは、沖縄の捕虜収容所からハワイ、アメリカ本土、というように収容所を転々と移送され、また沖縄に送還された。
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捕虜収容所
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「サンド・アイランド収容所」の記事における「捕虜収容所」の解説
ハワイに移送された捕虜 1944年、約1,000 人のイタリア人捕虜がハワイに移送された。また沖縄戦の捕虜が沖縄の収容所から1945年6月から7月で3回に分けてハワイに移送された。1945年9月には1,010人の朝鮮人捕虜と952人のイタリア人捕虜が収容されていたことが記録に残っているが、沖縄の学徒兵を含む沖縄人捕虜も多く移送されていた。 第1回目 - 6月10日頃、嘉手納捕虜収容所から約180人 第2回目 - 6月27日頃、屋嘉捕虜収容所から沖縄人捕虜と朝鮮人捕虜が約1,500人 第3回目 - 7月3日頃、沖縄人捕虜と朝鮮人捕虜が約1,500人 捕虜情報局のレポートによると、1945年7月から10月までハワイで受け入れた沖縄人捕虜の総数は計3,688人といわれている。沖縄の屋嘉捕虜収容所などで将校捕虜、日本人捕虜、朝鮮人捕虜、沖縄人捕虜に分けられて収容された捕虜のうち、朝鮮人捕虜と沖縄人捕虜が選抜されてハワイに移送されていたことがわかる。 ホノウリウリからサンド・アイランドへ 強制収容された日系ハワイの一部149人がサンド・アイランドからホノウリウリや本土に移送されたのとは逆に、多くの沖縄人捕虜は、ホノウリウリからサンド・アイランドへと逆の経路をたどっている。 1943年3月までにホノウリウリへと日系収容者を移送した後にも、サンド・アイランドでは増設工事がくりかえされ、より軍事拠点化され、捕虜を軍作業の労働力として利用することが可能になった。 こうした軍作業に使役されたのは、日本軍が動員した鉄血勤皇隊・通信隊の少年兵も同様だった。当時沖縄県立第二中学校三年生で二中通信隊無線班に配属された諸見里安弘は屋嘉捕虜収容所から「裸船」とよばれた劣悪な輸送船でハワイに移送された。 ハワイ・オアフ島のアカンチャー(赤土)収容所(註・ホノウリウリ収容所)で3カ月ほど暮らした。仕事とてなく食事は豊富、栄養失調の体力もみるみる回復していく。米兵らから「ショーリー」と呼ばれてかわいがられた諸見里安弘さんと上原安栄さんにとっては特に快適な日々が続いた。しかし、生死の境をともに行動した2人は3カ月後には別れる。諸見里さんが足に食い込んだ弾片の摘出手術で入院中、上原さんは沖縄に引き揚げていた。沖縄に帰れたのは「少年組」と「フィラリア組(フィラリア患者だけを隔離して収容していた)」。諸見里さんも少年組で帰れるはずだった。 退院して間もなく諸見里さんはアロハ島 (ママ)・サンドアイランドの収容所に移される。「食事が質、量とも落ち、寝るのも4人用テントに折りたたみ式ベッド。毛布1枚で寒いくらいだったが雨の日にベッドから落ちると、ずぶぬれで朝まで眠れなかった」。 強制労働も始まった。飛行場や道路の草刈り。洗たくや炊事などもあった。労働に対する報酬は80セントの日給。食費を差し引き、キャンプ内の売店で使えるクーポン券が支給された。諸見里さんは途中、カネオヘの収容所で診療所勤務もはさんだが、サンドアイランドで多くを暮らした。 — 琉球新報「戦禍を掘る」1985年1月28日掲載 ホノウリウリからサンド・アイランドへと移された学徒兵を含む多くの捕虜は、サンド・アイランドでの食事や労働環境が悪化したと感じ、またそれに抗議して捕虜のストライキもおこっている。陸軍病院の建築やランドリーの軍作業に3カ月使われた崎間喜光は「あまり激しく使われたのでこのままでは体が持たないと主張し、40人位でストライキを起こした。(中略) その中から私を含めた 7-8人が衛所に連れ込まれ、パンと水で1週間閉じ込められた」と証言している。 終戦後、1945年9月26日付のハワイ収容所文書「フィラリアか身体的障害のある捕虜の送還予定者リスト」には、フィラリア感染者、戦闘で身体障害をうけたもの、衰弱が激しい者、「16歳以下で身体が小さいため作業の詳細に不適合」とされた者、「45歳以上で厳しい仕事には不向き」とされた者がリストに上げられており、軍作業の労働力として不適当とみなされた者が送還されている。 県系ハワイの人々の支援 1945年9月15日、捕虜情報局によって血縁者にハワイに収容中の捕虜との面会が許可されることが発表された。多くの捕虜の証言は、血縁の有無にかかわらず、1946年の末まで彼らが県系ハワイ人の支援に大きく支えられたことを証言している。 ある日、いつものように捕虜仲間10人とトラックに乗せられ作業場へ向かっていると、安慶名さんが突如道路に現れ、トラックを止めた。安慶名さんは運転席の米兵に金銭を手渡し、夕方まで捕虜を任せてほしいと交渉。そして、渡久山さんたちに豚肉料理など古里の味をたらふく振る舞った。「県系人は皆、とにかく優しかった」。彼らは「命の恩人」であり、敵国に連行され、不安を募らせていた渡久山さんたちの心の支えでもあった。一方で、県系人らも渡久山さんら捕虜に会うたびに沖縄戦の状況や、故郷に残してきた親族の安否について熱心に聞いてきた。「苦境にあってもお互いを思いやる、ウチナーンチュの優しさを見た」と振り返った。 — 「忘ららん~ハワイ捕虜・72年後の鎮魂~ 現地県系人「命の恩人」収容所へたばこや弁当」(琉球新報 2017年5月31日)
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捕虜収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:22 UTC 版)
フォート・マッコイは、第二次世界大戦中アメリカ本土で最も多くの日本人捕虜を収容していたことで知られている。太平洋戦線で捕らえられ本土へ移送された日本人捕虜は、多くはハワイのホノウリウリ収容所などからサンフランシスコのエンジェル島収容所にいったん集められ、そして窓のない列車で冬は零下20度にもなるウイスコンシンまで移送された。 5カ所の捕虜収容区域があり、そのうち、区域1と2は日本人捕虜用、3と4がドイツ人捕虜用、また5つが朝鮮人捕虜に当てられ、各区域に50の二段ベッドが並べられた2つの兵舎があった。 1943年4月、すべての「敵国人」がキャンプマッコイから移送され、1943年12月までに、捕虜収容所施設には500人のドイツ人入隊者、88人の日本人入隊者、12人の日本人将校が収容された。第二次世界大戦の終わりに、捕虜収容所は約3,000人のドイツ人、2,700人の日本人、500人の朝鮮人捕虜を収容し、フォートマッコイは米国で最大の恒久的な日本人捕虜収容所になった。 ジュネーブ条約 1942年4月のバターン死の行進などで、連合国は日本軍に捕らえられた捕虜が過酷な状況におかれていることを当初から把握していた。連合国は、日本が捕虜をより正当に扱うように、連合国の捕虜収容所の良好な状態を日本政府に知らせるべく努めたが、日本政府は自国の捕虜の存在を徹底して不可視化させたため、戦略としては成功しなかった。それでも米国側は日本の捕虜を収容する際、できるだけジュネーブ条約に従うよう努めた。マッコイ収容所では、1942年3月28日の時点で、1929年のジュネーブ条約に従って捕虜第一号の海軍少尉酒巻に月給を支払うべきであるとする陸軍長官の通知が記録されている。 食生活 食事は日本式で、ご飯は1日1回以上提供された。またすべての食事に醤油が提供されており、国際赤十字の支援を受けて、フォークとナイフの代わりに箸が準備された。仏教行事も定期的に行われ、熱心に支援活動を続けた地元のYMCAは捕虜の求めに応じてお香も提供した。キャンプマッコイでも様々な趣味や演劇やスポーツが盛んにおこなわれた。他の収容所と同様に演劇はとくに人気で、舞台が設営され、水彩画の道具や書籍や楽器、麻雀やビリヤードや卓球、サッカーや野球のスポーツ用品も YMCA によって提供された。また将校クラスは宿営も別で、労役もなく、砂糖も贅沢に使えた。 キャンプ・マッコイには、四百人余りの日本人捕虜たちが収容されていた。ジュネーブ条約を遵守する方針のきわめて紳士的な収容所長だったホイレス・ロジャース中佐により、キャンプ内 のことは捕虜たちの自治にまかされた。酒巻少尉ら何名かの士官や下士官が指揮をとり、自主自律の生活を送ることができた。捕虜には給料が毎月チケットで支給され、酒類を除いてはPX (売店)でケーキやタバコ、清涼飲料水などが自由に購買できた。また、毎日の食事も豊富で、 朝食はパン、フルーツ、スクランブルエッグ、ベーコン、ミルク、コーヒーなどを満腹になるま で供された。夕食には和食がだされ、地元の日系人から日本食用の食料品の差し入れも自由だった。 映画館などの娯楽施設も完備し、さまざまな劇場映画が上映され、週に一回十五セントのチケ ットで映画鑑賞も許されていた。宿舎内には日本式の浴場もあり、捕虜の待遇にはこれ以上ないほど神経が行き届いていたのである。 キャンプで捕虜たちを最も感嘆させたのは、万全の医療体制である。キャンプからほど近いところに陸軍病院があった。そこは内科、外科はいうにおよばず、眼科、耳鼻咽喉科、産婦人科を 有する総合病院であった。 — 中田整一『トレイシー: 日本兵捕虜秘密尋問所』(2010年) 捕虜に対する米軍の扱いは、きわめて人道的かつ丁重なものだったという。「人によっては酷い拷問を受けたみたいですが……。捕虜取扱いに関する国際条約で、食事も給料もアメリカ兵の最低以下にしてはならん、となっていたらしいです。給料は現金ではなくクーポンで支給され、月に何度かはビールの券まで出る。豊田さんや酒巻さんが中心になってみんなの券を集めておいて、何かの記念日には宴会をやろうと。正月や四大節(四方拝・紀元節・天長節・明治節)など、なかなか派手にやってたですよ」 — 神立尚紀「生きているのに靖国に祀られ…捕虜となった凄腕零戦パイロットの葛藤」 一部の捕虜は収容所内で大学の通信教育を受け、数人のドイツ人捕虜がウィスコンシン大学マディソン校から大学の単位を取得した。日本の捕虜の4割は高校または大学の単位を取得した。 収容所のトラブル 一方で被収容者の人種・民族的な対立は深刻な問題でもあった。ドイツ人捕虜はフェンス越しに同盟国であるはずの日本人捕虜を人種差別的な言葉やジェスチャーで嘲笑し、食堂や理髪所や購買所のような共有エリアでは一発触発であった。また「より攻撃的な日本人捕虜とより協力的な朝鮮人捕虜との関係は刺々しい」ものであり、朝鮮人捕虜がキリスト教の聖書や日本からの独立のシンボルとしての朝鮮の旗を作る布を求める一方で、日本人捕虜の代表者(酒巻)の要請は「微細にわたり、かつ絶え間ない」ものであったという。それらの要請には、ストーブに材木ではなく石炭を求めるといったことから、アメリカ人女性と一緒の軍のランドリーでの労役に対してや、3人のマーシャル諸島の住民と一緒に収容されることへの憤慨などもあった。さらに日本人捕虜のあいだでも海軍兵士と陸軍兵士のあいだで常に対立が絶えず、新参者が古参を侮蔑する傾向があった。捕虜になることを許さない戦陣訓のために、多くの捕虜が自殺願望にさいなまれた。フォート・マッコイの歴史パネルには日本人捕虜がロケット弾をもちこみ爆発させ、一人が死亡し5人が負傷したと記されているが、FBI の調査報告書によると、レスリング大会(相撲?)を兵舎の仲間に知らせるため、訓練場から持ち込んだ砲弾を鉄の寝台で叩いていたところ、爆発したものだという。 軍側の当初の予測に反し、またドイツ人捕虜の脱走率に比して、日本人捕虜の大多数は脱走を試みることはなかった。アメリカ本土で日本人捕虜の脱走未遂はわずか14回であり、そのすべてはこのキャンプ・マッコイでおこったものだが、脱走に成功した者はいない。地元のバンガー・インディペンデントは、1945年5月23日の3人の日本人捕虜脱走者とその逮捕劇を実名入りで報じている。 終戦後 終戦後、最後の捕虜が1946年6月に収容所を去り、キャンプ・マッコイの収容所は閉鎖された。共に収容所で暮らした元兵士たちの結束は固く、待来会(まっこいかい)という同窓会が作られた。
※この「捕虜収容所」の解説は、「フォート・マッコイ」の解説の一部です。
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「捕虜収容所」の例文・使い方・用例・文例
- 捕虜収容所
- 捕虜収容所.
- 捕虜収容所のページへのリンク