捕虜収容所とは? わかりやすく解説

捕虜収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/09 15:29 UTC 版)

捕虜収容所(ほりょしゅうようしょ、: prisoner-of-war camp、略語:POW camp)は、戦時中に交戦団体により捕らえられた敵の兵士を収容する場所である。


注釈

  1. ^ 無論、ナチズムによるホロコーストの犠牲者を考慮しない場合の話である。

出典

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捕虜収容所

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ロング島 (フィニステール県)」の記事における「捕虜収容所」の解説

第一次世界大戦の勃発後の1914年8月23日1500人を乗せた船「ニューヨーク」が収容された。このうちドイツ人400人、オーストリア人250人がいた。同年9月2日には第2戦隊によって拿捕された「ニュエ・アムステダム(Nieuw Amsterdam)」がブレスト回航される。同年9月23日収容先のクロゾン要塞ブレストから1500人を順次移送する事となり、11月5日収容施設完成し運用される最後の捕虜1919年12月31日釈放される第二次世界大戦中1940年から1944年までナチス・ドイツ軍収容所跡地対空部隊配置したまた、施設記念碑破壊された

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捕虜収容所

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シリル・ワイルド」の記事における「捕虜収容所」の解説

1945年2月降伏後当初1週間ほどフォート・カニング抑留された後チャンギーの捕虜収容所に移されその間パーシバル中将ヒース中将英軍司令官参謀将校との連絡将校通訳務めたワイルドこの頃から、日本軍捕虜の取扱い戦争犯罪該当する行為がないかを確認し、また連合軍捕虜から情報収集していた。 1942年3月13日、チャンギーからリバーヴァレー通り収容所移り同年12月までの約8ヶ月間、リバーヴァレー通りハヴェロック通り合同収容所の副旅団長通訳連絡将校として作業所将兵に付き添った1942年12月収容所捕虜5,000とともにチャンギーに戻る。チャンギーでは連合軍捕虜日本軍意思疎通改善をはかり、結果1943年4月に至るまで平穏に過ごした。そこで、タイから病気罹り後送されてきた捕虜から泰緬鉄道建設過酷さについて聞いていたワイルドは、F隊とともにタイ行くこと決めた

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捕虜収容所(3000点)

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ダウボーイ」の記事における「捕虜収容所(3000点)」の解説

ステージ5登場爆破する事で重要人物救出できる

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捕虜収容所(惑星ケセル)

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スター・ウォーズ 出撃! ローグ中隊」の記事における「捕虜収容所(惑星ケセル)」の解説

救助されウェッジ情報で、他にも多数反乱軍兵士囚われていることが判明。クリックス・メイディンの部隊が彼らの救助向かった今回ローグ中隊は、クリックスの部隊護衛として出撃する

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捕虜収容所

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フェーダ」の記事における「捕虜収容所」の解説

EOJ特有のシステム戦闘中主人公パートナーHP尽きるとゲームオーバーとなるが、パーティメンバー敗れた場合わずかなペナルティ発生するだけである。戦線離脱したユニットは捕虜収容所に収監され戦闘終了後簡単な救出ミッションを行うことで戦線復帰させることができる。また、この救出ミッション強制ではなく、キャンプフェイズであれば任意のタイミングで行うことができ、遅滞によるペナルティ存在しない

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捕虜収容所

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舩坂弘」の記事における「捕虜収容所」の解説

その後数日捕虜訊問経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説ペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ”の言動には注意しろと、要注意人物筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし俘虜となっても舩坂の闘志衰えずペリリュー身柄移され2日目には、瀕死の重傷思われていたことで監視甘く収容所から抜け出すことに成功。さらに、船坂は2回にわたって飛行場炎上させることを計画するが、同収容所勤務していたF.V.クレンショー伍長F. V. CRENSHAW, 生没年不詳)に阻止され失敗グアムハワイサンフランシスコテキサス、と終戦まで収容所転々と移動し1946年帰国する

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捕虜収容所

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エンジェル島収容所」の記事における「捕虜収容所」の解説

太平洋戦線捕虜となりアメリカ本土に連れてこられた5,000人を超える日本人捕虜がまず向かったのはエンジェル島だった。フォート・マクダウェルのなかにある四階建ての兵舎には三段ベッドずらりとならび、医療体制整い食事メニュー豊かで常時500名の捕虜を収容することができた。血みどろ玉砕戦場から遠く離れサンフランシスコ街並みゴールデン・ゲート・ブリッジくぐりぬけやってきた捕虜ひとりひとりに、尋問官時間をかけてむきあい尋問官尋問ことさら暴力を使う必要はなかった。ここで重要情報を持っている捕虜かどうか捕虜情報的価値品定めされ、選ばれた捕虜は、そこから70kmほど離れたトレイシー捕虜尋問所におくられた。選別漏れた捕虜は、ウィスコンシン州フォート・マッコイルイジアナ州キャンプ・リビングストンなど、本土9カ所他の捕虜収容施設移送された。そうした収容施設米軍基地内にあるため捕虜米軍食事医療準ずる対応をうけ、例えフォート・マッコイでの捕虜収容所では収容所被収容者自治任され映画鑑賞日本式浴場まで完備されていたこうした捕虜尋問通訳翻訳あたったのは、米軍養成した語学将校日系人強制収容所から入隊した二世らを含む語学であった1941年6月海軍秘密裡にカリフォルニア・バークレー校とハーバード大学海軍日本語学校開設し一方陸軍1941年11月ゴールデン・ゲート・ブリッジ南側プレシディオにあるクリッシー陸軍飛行場内にMIS語学学校設立したエンジェル島から7kmも離れていない場所である。また、海軍日本語学校学生が日本に滞在経験のある大学卒白人主流であったに対し陸軍MIS日系二世入学積極的に受け入れ初年度学生60人のうち、58が日アメリカ人青年であったオレンジ郡住んでいた沖縄県二世のピーター・オオタはコロラド州日系人強制収容所からアメリカ軍入隊し語学としての研修受けた配属され先は太平洋戦線ではなくエンジェル島であった。そこで彼は数十名の沖縄人少年兵捕虜として連れてられているのに驚く。沖縄戦捕虜となって屋嘉捕虜収容所送られた者の内、学徒兵含めた沖縄出身兵士多くハワイホノウリウリ収容所送られ、そこでフィラリア検査の後、一中通信隊の安里祥徳や神谷依信は「ボーイ」組とよばれ、ハワイからシアトルへ、そこから列車移動してエンジェル島収容された。エンジェル島ウィスコンシン州フォート・マッコイ収容所から移送され沖縄人捕虜合流し沖縄に再び送還されたという。沖縄戦後方米軍着々と米軍基地建設していくが、沖縄戦兵站基地建設労働力として不向きと思われる少年兵たちは、沖縄の捕虜収容所からハワイアメリカ本土、というように収容所転々と移送され、また沖縄送還された。

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捕虜収容所

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サンド・アイランド収容所」の記事における「捕虜収容所」の解説

ハワイ移送され捕虜 1944年、約1,000 人のイタリア人捕虜ハワイ移送された。また沖縄戦捕虜沖縄の収容所から1945年6月から7月3回分けてハワイ移送された。1945年9月には1,010人の朝鮮人捕虜と952人のイタリア人捕虜収容されていたことが記録残っているが、沖縄学徒兵を含む沖縄人捕虜多く移送されていた。 第1回目 - 6月10日頃、嘉手納捕虜収容所から約180第2回目 - 6月27日頃、屋嘉捕虜収容所から沖縄人捕虜朝鮮人捕虜が約1,500人 第3回目 - 7月3日頃、沖縄人捕虜朝鮮人捕虜が約1,500人 捕虜情報局レポートによると、1945年7月から10月までハワイ受け入れた沖縄人捕虜総数は計3,688人といわれている。沖縄屋嘉捕虜収容所などで将校捕虜日本人捕虜朝鮮人捕虜沖縄人捕虜分けられ収容され捕虜のうち、朝鮮人捕虜沖縄人捕虜選抜されハワイ移送されていたことがわかる。 ホノウリウリからサンド・アイランドへ 強制収容された日系ハワイ一部149人がサンド・アイランドからホノウリウリ本土移送されたのとは逆に多くの沖縄人捕虜は、ホノウリウリからサンド・アイランドへと逆の経路たどっている。 1943年3月までにホノウリウリへと日系収容者移送し後にも、サンド・アイランドでは増設工事くりかえされ、より軍事拠点化され、捕虜を軍作業労働力として利用することが可能になった。 こうした作業使役されたのは、日本軍動員した鉄血勤皇隊通信隊の少年兵同様だった当時沖縄県第二中学校三年生二中通信無線班に配属され諸見里安弘屋嘉捕虜収容所から「裸船」とよばれた劣悪な輸送船ハワイ移送された。 ハワイ・オアフ島のアカンチャー(赤土収容所(註・ホノウリウリ収容所)で3カ月ほど暮らした仕事とてなく食事は豊富、栄養失調体力みるみる回復していく。米兵らから「ショーリー」と呼ばれてかわいがられ諸見里安弘さんと上原安栄さんにとっては特に快適な日々続いた。しかし、生死の境をともに行動した2人は3カ月後に別れる諸見里さんが足に食い込んだ弾片の摘出手術入院中上原さんは沖縄引き揚げていた。沖縄帰れたのは「少年組」と「フィラリア組(フィラリア患者だけを隔離して収容していた)」。諸見里さんも少年組帰れるはずだった。 退院して間もなく諸見里さんはアロハ島 (ママ)・サンドアイランドの収容所移される。「食事が質、量とも落ち、寝るのも4人用テント折りたたみ式ベッド毛布1枚で寒いくらいだった雨の日にベッドから落ちると、ずぶぬれ朝まで眠れなかった」。 強制労働始まった飛行場道路草刈り洗たく炊事などもあった。労働に対する報酬80セント日給食費差し引きキャンプ内の売店使えるクーポン券支給された諸見里さんは途中カネオヘ収容所診療所勤務はさんだが、サンドアイランドで多く暮らした。 — 琉球新報戦禍を掘る」1985年1月28日掲載 ホノウリウリからサンド・アイランドへと移され学徒兵を含む多くの捕虜は、サンド・アイランドでの食事労働環境悪化した感じ、またそれに抗議して捕虜ストライキおこっている。陸軍病院建築ランドリーの軍作業に3カ月使われた崎間喜光は「あまり激しく使われたのでこのままでは体が持たない主張し40人位でストライキ起こした。(中略) その中から私を含めた 7-8人が衛所に連れ込まれパンと水1週間閉じ込められた」と証言している。 終戦後1945年9月26日付のハワイ収容所文書フィラリア身体的障害のある捕虜送還予定者リスト」には、フィラリア感染者戦闘身体障害をうけたもの衰弱激しい者、「16歳以下で身体小さいため作業詳細に不適合」とされた者、「45歳上で厳しい仕事には不向き」とされた者がリスト上げられており、軍作業労働力として不適当みなされた者が送還されている。 県系ハワイ人々支援 1945年9月15日捕虜情報局によって血縁者ハワイ収容中捕虜との面会許可されることが発表された多くの捕虜証言は、血縁有無にかかわらず1946年の末まで彼らが県系ハワイ人支援大きく支えられたことを証言している。 ある日いつものように捕虜仲間10人とトラック乗せられ作業場向かっていると、安慶名さんが突如道路現れトラック止めた安慶名さんは運転席米兵金銭手渡し夕方まで捕虜任せてほしいと交渉。そして、渡久山さんたちに豚肉料理など古里の味をたらふく振る舞った。「県系人は皆、とにかく優しかった」。彼らは「命の恩人」であり、敵国に連行され、不安を募らせていた渡久山さんたちの心の支えでもあった。一方で、県系人らも渡久山さん捕虜に会うたびに沖縄戦状況や、故郷残してきた親族安否について熱心に聞いてきた。「苦境にあってお互い思いやるウチナーンチュ優しさ見た」と振り返った。 — 「忘ららん~ハワイ捕虜72年後の鎮魂現地県系人「命の恩人収容所たばこや弁当」(琉球新報 2017年5月31日)

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捕虜収容所

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フォート・マッコイ」の記事における「捕虜収容所」の解説

フォート・マッコイは、第二次世界大戦中アメリカ本土で最も多くの日本人捕虜収容していたことで知られている太平洋戦線捕らえられ本土へ移送され日本人捕虜は、多くハワイホノウリウリ収容所などからサンフランシスコエンジェル島収容所にいったん集められ、そして窓のない列車で冬は零下20度にもなるウイスコンシンまで移送された。 5カ所捕虜収容区域があり、そのうち区域1と2は日本人捕虜用、3と4ドイツ人捕虜用、また5つ朝鮮人捕虜当てられ各区域に50二段ベッド並べられ2つ兵舎があった。 1943年4月すべての敵国人」がキャンプマッコイから移送され1943年12月までに、捕虜収容所施設には500人ドイツ人入隊者、88人の日本人入隊者、12人の日本人将校収容された。第二次世界大戦終わりに、捕虜収容所は約3,000人のドイツ人、2,700人の日本人500人朝鮮人捕虜収容しフォートマッコイ米国最大の恒久的な日本人捕虜収容所になったジュネーブ条約 1942年4月バターン死の行進などで、連合国日本軍捕らえられ捕虜過酷な状況におかれていることを当初から把握していた。連合国は、日本捕虜をより正当に扱うように、連合国の捕虜収容所の良好な状態を日本政府知らせるべく努めたが、日本政府自国捕虜存在徹底して不可視化させたため、戦略としては成功しなかった。それでも米国側は日本の捕虜を収容する際、できるだけジュネーブ条約に従うよう努めたマッコイ収容所では、1942年3月28日時点で1929年ジュネーブ条約に従って捕虜第一号の海軍少尉酒巻月給支払うべきであるとする陸軍長官通知記録されている。 食生活 食事日本式で、ご飯1日1回以上提供された。またすべての食事醤油提供されており、国際赤十字支援を受けてフォークナイフ代わりに箸が準備された。仏教行事定期的に行われ熱心に支援活動続けた地元YMCA捕虜求めに応じてお香提供したキャンプマッコイでも様々な趣味演劇スポーツ盛んにおこなわれた他の収容所と同様演劇はとくに人気で、舞台設営され、水彩画道具書籍楽器麻雀ビリヤード卓球サッカー野球スポーツ用品YMCA によって提供された。また将校クラス宿営別で労役もなく、砂糖贅沢に使えたキャンプ・マッコイには、四百余り日本人捕虜たちが収容されていた。ジュネーブ条約遵守する方針きわめて紳士的な収容所長だったホイレス・ロジャース中佐により、キャンプ内 のことは捕虜たちの自治まかされた。酒巻少尉何名かの士官下士官指揮をとり、自主自律生活を送ることができた。捕虜には給料毎月チケット支給され酒類除いてPX (売店)でケーキタバコ清涼飲料水などが自由に購買できた。また、毎日の食事豊富で朝食パンフルーツスクランブルエッグベーコンミルクコーヒーなどを満腹になるま で供された。夕食には和食がだされ、地元日系人から日本食用の食料品差し入れ自由だった映画館などの娯楽施設完備しさまざまな劇場映画上映され、週に一回十五セントチケ ット映画鑑賞許されていた。宿舎内に日本式浴場もあり、捕虜待遇にはこれ以上ないほど神経が行届いていたのであるキャンプ捕虜たちを最も感嘆させたのは、万全の医療体制である。キャンプからほど近いところに陸軍病院があった。そこは内科外科いうにおよばず眼科耳鼻咽喉科産婦人科有する総合病院であった。 — 中田整一トレイシー: 日本兵捕虜秘密尋問所』(2010年) 捕虜に対する米軍扱いは、きわめて人道的かつ丁重なのだったという。「人によっては酷い拷問受けたみたいですが……。捕虜取扱いに関する国際条約で、食事給料アメリカ兵の最低以下にしてはならん、となってたらしいです。給料現金ではなくクーポン支給され、月に何度かビールの券まで出る。豊田さん酒巻さんが中心になってみんなの券を集めておいて、何かの記念日には宴会をやろうと。正月四大節四方拝紀元節天長節明治節)など、なかなか派手にやってたですよ」 — 神立尚紀生きているのに靖国祀られ捕虜となった凄腕零戦パイロットの葛藤一部捕虜収容所内で大学の通信教育を受け、数人ドイツ人捕虜ウィスコンシン大学マディソン校から大学単位取得した日本の捕虜の4割は高校または大学単位取得した収容所トラブル 一方で被収容者人種・民族的な対立深刻な問題でもあった。ドイツ人捕虜フェンス越しに同盟国であるはずの日本人捕虜人種差別的な言葉ジェスチャー嘲笑し食堂理髪所購買のような共有エリアでは一発触発であった。また「より攻撃的な日本人捕虜とより協力的な朝鮮人捕虜との関係は刺々しい」ものであり、朝鮮人捕虜キリスト教聖書日本からの独立シンボルとして朝鮮の旗作る布を求め一方で日本人捕虜代表者酒巻)の要請は「微細にわたり、かつ絶え間ない」ものであったという。それらの要請には、ストーブ材木ではなく石炭求めるといったことからアメリカ人女性一緒の軍のランドリーでの労役に対してや、3人マーシャル諸島住民一緒に収容されることへの憤慨などもあった。さらに日本人捕虜のあいだでも海軍兵士と陸軍兵士のあいだで常に対立絶えず、新参者古参侮蔑する傾向があった。捕虜になることを許さない戦陣訓のために、多くの捕虜自殺願望さいなまれた。フォート・マッコイ歴史パネルには日本人捕虜ロケット弾もちこみ爆発させ、一人死亡し5人が負傷した記されているが、FBI調査報告書によると、レスリング大会相撲?)を兵舎仲間知らせるため、訓練場から持ち込んだ砲弾鉄の寝台叩いていたところ、爆発したものだという。 軍側当初の予測反し、またドイツ人捕虜脱走率に比して日本人捕虜大多数脱走試みことはなかった。アメリカ本土日本人捕虜脱走未遂はわずか14回であり、そのすべてはこのキャンプ・マッコイおこったものだが、脱走成功した者はいない。地元のバンガー・インディペンデントは、1945年5月23日3人日本人捕虜脱走者とその逮捕劇を実名入り報じている。 終戦後 終戦後最後の捕虜1946年6月収容所去りキャンプ・マッコイ収容所閉鎖された。共に収容所暮らした元兵士たちの結束固く、待来会(まっこいかい)という同窓会作られた

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