捕虜収容所の一部
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「ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為」の記事における「捕虜収容所の一部」の解説
Oflag IV-C(Offizierslager IV-C、将校用収容所) 収容所として使用していたコツディッツ城に収容された連合軍の将校は、赤十字の救援物資をソビエト赤軍捕虜に渡らないようにするために隔離されていた。 Oflag XIII-A 1941年7月、新たな施設(Oflag XIII-D)は、バルバロッサ作戦中に捕虜となったソビエト上級将校の為に準備されたが、1942年4月に閉鎖された。この時、生き残っていた捕虜(多くは冬の間に病気が流行し、死亡した。)は、他の収容所へ移された。 Stalag 324(第324捕虜収容所) 一週間ごとに病気の捕虜は射殺された。 Stalag 350/Z 1944年のソビエト連邦の報告書によると、処刑、殺害、飢餓で43,000名が死亡した。 Stalag 359B 1941年9月21〜28日の間に整理が流行し、初日で3,261名が死亡、その後、約6,000名の処刑に繋がったが、これは悪名高い第306警察大隊によって行われた。 Stalag I-B 約50,000名が収容所で死亡、その大部分がソビエト捕虜であった。 Stalag II-B 第2収容所(Lager-Ost)はバルバロッサ作戦のために捕虜となった多数のソビエト将兵の為に1941年6月に設置されたが、11月、腸チフスが発生、約45,000名が死亡し、集団墓地に埋められた。予防措置はドイツ兵に感染が始まるまでは全く行われなかった。 Stalag III-A Stalag III-C 1941年7月にバルバロッサ作戦で捕虜となったソビエト将兵が送られた。彼等は隔離施設に収容され、病気は蔓延し、悲惨な状況であった。大部分の捕虜(最高で12,000名)が処刑か、飢餓か、病気により死亡した。 Stalag IV-A 1941年6月〜9月にかけて、バルバロッサ作戦で捕虜となったソビエト将兵が送られた。状況は悲惨であり、飢餓、流行病、そして厳しい待遇により、生命は常に脅かされる状態であった 。死亡した捕虜は集団墓地に埋められた。 Stalag IV-B 7月、約11,000名のソビエト兵と少数の将校が収容された。1942年4月までには厳しい衛生状況に起因する栄養失調と発疹チフスの流行により大部分が死亡、わずかに3,279名に激減した。彼等は集団墓地に葬られ、さらにその直後の1942年4月に送られて来た捕虜は到着した後まもなくに死亡するものが多数いた。1942年末、約10,000名の健康体であった捕虜は炭鉱で働かされるために、ベルギーへ送られた。残された者は結核を患い、一日に10名から20名の規模で病死し続けた。 Stalag IV-H 1941年12月以降、腸チフスが流行したが、それまで収容されていた10,677名が流行の終わった1942年4月の時点で3,729名に激減していた。1942年、少なくとも1,000名がゲシュタポ及びブーヘンヴァルトにおいて「除去され」た。 Stalag V-A 1941〜1942年の間に多くのソビエト捕虜が収容されたが、彼等は個別の囲いで囲まれ、他の捕虜よりも非常に厳しい扱いを受けた。数千人が栄養失調と病気で死ぬこととなった。 Stalag VI-C 1941年夏、バルバロッサ作戦の捕虜、2,000名以上が収容された。状況は厳しく、飢餓、流行病、虐待により、命を失うものが多かった。死者は集団墓地に埋められた。 Stalag VI-K 40,000〜60,000名の捕虜が死亡し、大部分は3箇所の集団墓地に埋められた。約200の記名された墓を含むソ連捕虜墓地は現在も存在する。 Stalag VII-A 5年半の間に1,000名の捕虜が収容所で死亡したが、その内、800名がソビエト捕虜であり、大部分が将校であった。戦争終了時、27名のソビエト高級将校が生き残っていた。新たな捕虜は地元のミュンヘンゲシュタポにより到着と同時に取調べを受けており、約484名が「好ましくない人物」として強制収容所で処刑された。 Stalag VIII-C 1941年後半、約50,000名の捕虜がその3分の1しか収容できないはずの収容所へ詰め込まれた。状況は厳しく、飢餓、流行病、虐待により、命を失うものが多かった。1942年前半までに、生存者は他の収容所へ送られた。 Stalag VIII-E 1941年7月、初めてのソビエト捕虜が到着し、1942年6月までに100,000名以上がこの収容所へ詰め込まれた。飢餓、そして腸チフスと結核の流行のために、終戦までに半数が死亡した。 Stalag VIII-F 身体的にも衛生的にも悲惨な状態であり、この収容所へ収容された300,000名のソビエト捕虜の内、およそ3分の1(約100,000名)が飢え、虐待、病気で死亡した。 Stalag X-B Stalag XI-B 1941年7月、10,000名以上ソビエト将校が収容されたが、その内、数千名は腸チフスの流行のために1941年2月の冬に死亡した。 Stalag XI-C 1941年7月、バルバロッサ作戦により捕虜となったソビエト捕虜、約20,000名が収容されたが、収容のための小屋が建設されるまで、彼等は露天での生活を余儀なくされ、1941年から42年にかけての冬、約14,000名が死亡した。1943年後半に捕虜収容所としては閉鎖され、後の悪名高いベルゲン・ベルゼン強制収容所となった。
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