捕虜収容所併設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:05 UTC 版)
元々この地に俘虜収容所が併設されたのは日露戦争の時である。1905年(明治38年)ロシア人捕虜を収容する「露西亜俘虜収容所」が似島第一検疫所に併設され、最大2,391人収容していた。ただこの日露戦争時の捕虜は検疫後一時的に収容されていたものであり、ここから宇品へ渡り全国の収容所へ送られたと現在では考えられている。 「第一次世界大戦下の日本」も参照 第一次世界大戦の局面で日独戦争が勃発、戦争終結後当時大阪市にありドイツ人捕虜(日独戦ドイツ兵捕虜)を収容していた「大阪俘虜収容所」が手狭となったことから閉鎖し移転することになった。1917年(大正6年)2月19日、その移転先として似島第二検疫所内に似島俘虜収容所が開設した。所長は大阪収容所所長の菅沼來がそのまま務め、ドイツ将兵536人、オーストリア兵9人、計545人が移送されている。なお下記でも分かる通り、全員兵士として管理していたが非戦闘員も含まれていた。 第一次世界大戦勃発以降、俘虜収容所は全国各地につくられたが、それらは似島・久留米俘虜収容所(福岡)・板東俘虜収容所(徳島)・青野原俘虜収容所(兵庫)・名古屋俘虜収容所(愛知)・習志野俘虜収容所(千葉)と最終的に6つに統合され、中でも似島は板東とともに最終的に整備された俘虜収容所であり、唯一島に作られた収容所となった。 ここに収容されたドイツ人捕虜はハーグ陸戦条約で守られいくつかの自由が許されており、彼らの一部は日本の文化に多大な影響を与えている。 カール・ユーハイム - バウムクーヘン日独戦争当時、青島で暮らす非戦闘員だった。 似島収容所内で、日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げて、1919年(大正8年)3月4日から12日にかけて広島県商品陳列所(現在の原爆ドーム)で行われた「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」で日本初となるバウムクーヘンの製作即売も行っている。この展覧会の売れ筋商品だったこと、盛況の様子が地元紙中国新聞に取材されていることがわかっている。 ヘルマン・ウォルシュケ - ソーセージ・ホットドッグドイツでは食肉加工職人であり、日独戦争当時はドイツ兵だった。 ヘルマンの他、ヒューゴー・シュトルおよびルートヴィヒ・ケルンの3人は、広瀬町上水入町(現広島市中区)にあったハム製造会社"酒井商会"で食肉加工の技術指導を行っている。この時の様子は大正8年12月25日付中国新聞に掲載されている。 ヘルマンも似島独逸俘虜技術工芸品展覧会でソーセージを出品した。ユーハイムに展覧会でバームクーヘンを出品するよう助言した一人でもある。 解放後日本に留まり、1934年(昭和9年)阪神甲子園球場で行われた日米野球で、日本で初めてホットドッグを販売した。この「ヘルマンドック」は、復刻の形で2014年現在でも甲子園球場で販売されている。 カール・F・グラーザーら"似島イレブン" - サッカー元々ドイツ人捕虜サッカーチームは大阪収容所時代に結成されたもので一軍と二軍の2チーム存在し、彼らは資料によっては"似島イレブン"と呼ばれている。そのキャプテンがグラーザーだった。 1919年1月26日、親善を目的として似島イレブン二軍チームと広島高等師範学校や広島県師範学校や各附属学校合同チームとサッカーの試合が行われ、大差で似島イレブンが勝利している。これらドイツ人捕虜チームとの試合は、日本初のサッカー国際試合とも言われている。 このとき広島高師の主将を務めた田中敬孝は捕虜のサッカー技術の高さに驚き、試合後、軍の許可を得てグラーザー達からサッカーを教わっている。田中は翌年から広島一中の監督として指導し、ドイツ人から教わったという話を聞きつけた関西の師範学校から指導に来るよう頼まれるほど、捕虜のサッカー技術知識は需要があったという。 ユーハイムは大阪収容所時代にゴールキーパーとして参加していた記録が残っている。 似島イレブンとして広島で試合に出た一人であるフーゴー・クライバーは、ドイツに帰国後ヴァンバイル(ドイツ語版)でサッカークラブ「SV ヴァンバイル」を創設した。このクラブは後にドイツ代表ギド・ブッフバルトを輩出している。 その他の交流として、1919年5月18日広島市内でドイツ人捕虜による音楽会が開かれた記録がある(詳細は不明)。 第一次世界大戦終結後、随時ドイツ人捕虜は解放され、この収容所は1920年(大正9年)4月1日閉鎖されている。
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