捕虜を手厚く遇する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)
『太平記』流布本巻26「正行吉野へ参る事」では、天王寺の戦いで足利方を打ち破った際に敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰したと物語られている。この事に恩を感じ、四條畷の戦いでは、楠木勢として参戦した者もいたと描かれている。 なお、『太平記』では、父の楠木正成と弟の楠木正儀についても、摂津国の橋と川を巡って、ほぼ同じ逸話が物語られる。生駒孝臣は、余りにも話が出来すぎているとして、どれかが事実だった可能性はあるかもしれないが、三つ全てが事実とは考えにくい、と主張している。生駒はまた、「楠木氏は、橋と川がキーワードとなる一族である」という認識を『太平記』の著者らが持っており、これらの逸話は、その楠木氏の特性を表現したものではないか、とも推測している。 また、第二次世界大戦前の研究者の藤田精一も「潤色」と断言しているが、敵兵の撃滅だけを誇示する類の戦記よりは、武勇と慈愛の両方を理想として称える姿勢がある『太平記』の方が意義深い作品であると、『太平記』著者の創作態度については好意的に見ている。 明治20年(1887年)、日本が赤十字社への加盟を申請した際、正行の救敵伝説を欧米に紹介したところ、加盟が滞りなく進んだという説がある。しかし、日本赤十字看護大学の元職員吉川龍子によれば、これもまた一種の伝説であり、加盟時に正行の伝説が引き合いに出されたという確かな史料的根拠は無いという。とはいえ、加盟した「後」に正行の伝説が日本赤十字社の広報活動に用いられたのは確かで、大正4年(1915年)にイギリスで開かれた赤十字国際大会では、小堀鞆音が描いた「小楠公救敵兵」の絵が展示された。また、吉川によれば、明治期の日本赤十字看護大学の救護員養成の教科書には、正成の寄手塚の逸話(敵兵を敵と呼ばず「寄手」と呼び手厚く葬ったという伝説)や、正行の救敵伝説が掲載されており、我が国の赤十字精神を最も体現した歴史上の例は小楠公(正行)の事跡である、と絶賛されていたという。 昭和15年(1940年)、大阪市東区教育会は、この逸話に因み「小楠公義戦之碑」という碑を現在の大阪市中央区北浜東の大川沿いに建立した。
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