捕虜の連行と交換とは? わかりやすく解説

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捕虜の連行と交換

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 14:15 UTC 版)

ディアフィールド奇襲」の記事における「捕虜の連行と交換」の解説

109人の捕虜にとって、奇襲苦難の始まりに過ぎなかった。奇襲部隊カナダに戻るつもりで、真冬300マイル(約482.8キロ)の旅を目論んだ多く捕虜たちは準備不十分であり、奇襲部隊が彼らに提供できるものは不足していた。その結果、彼らはいつもの悪習およんだ。旅に耐えられないのが明らかな捕虜たちを殺したのである捕虜のうち、この試練乗り越えた者はわずかに89人だった。置き去りにされて死んだ者、または途中で殺された者の大部分は女と子供であった最初数日間で、数人捕虜脱走した。ルーヴィユはウィリアムズに、他の捕虜たちにこう言うよう伝えた。「脱走して再び捕えられた者は、拷問にかける」その後脱走する者はいなくなった。これはこけおどしではなかった、他の襲撃同様のことが行われたからである 。フランス指揮官悩みの種は、捕虜だけではなかった。インディアンたちの間で、捕虜処分に関して意見合わず時折殴り合いにまで発展しかねない状況になった3日目会議開かれ、彼らの意見の対立十分に解決され、旅はつづけられた。 ジョン・ウィリアムズ捕虜に関する言い分によれば、ほとんどの人々氷結したコネチカット川の上歩いて行きウエルズ川を上って、ウィヌースキ川を下りシャンプラン湖出た。そこからシャンブリに向かい、そこで部隊解散した捕虜たちは、自分を捕えた者と一緒にそれぞれの行ったウィリアムズの妻のユーニスは、6週間前に出産をしたばかり体力落ちており、最初に旅の途中で殺され捕虜一人となった。彼女の遺体は、ニューイングランド取り戻されディアフィールド共同墓地埋葬し直された。 この奇襲は、イングランド系住民の間に恐怖感植え付けようという、ヴォードルイユの目論見通りには行かなかった。彼らはむしろこの奇襲怒りヌーベルフランスに対してニューイングランド北部植民地総督たちから軍事行動起こそうという声が高まったダドリーはこう書いている。「ケベックポートロワイヤル破壊しフランス海軍物資をすべて我ら女王陛下の手にゆだね、永遠にインディアン戦争終止符を打つ。」 ディアフィールドウエルズの間の辺境地帯には、2000人以上もの兵によって、防御固められた 。そして、インディアン剥ぐ頭皮への報奨金が、40ドルから100ドルへと、倍以上に跳ね上がった1704年の夏、ベンジャミン・チャーチ率いニューイングランド軍は、ペンタグエ(現在のメイン州キャスティン)、パサマクォディ湾(現在のニューブランズウィック州セントスティーヴン)、グランプレピジキ、そしてボーバサンといったアカディア襲ったチャーチにより、ディアフィールド奇襲での捕虜との交換を含む命令なされたため、これでポートロワイヤルの砦への攻撃行わないことが明言された。 ディアフィールドその他の植民地では、捕虜解放身代金のための資金募っていた。フランス当局ヌーベルフランス住民も、インディアン指導者たちから捕虜解放すべく働きかけた。1年の間に、捕虜大部分フランスのものとなり、辺境地帯における人身売買商品となった。(その当時は、双方にとって、かなり一般的に行われていた) フランス人や、改宗したインディアンたちは、捕虜カトリック改宗させるべく働きかけまずまず効果上げていた。 しかし、捕虜の中でまだ幼い者は、身代金払われず、インディアン部族養子となったウィリアムズの娘のユーニスは、捕虜となった当時8歳で、完全にインディアン社会同化し、16歳モホークの男と結婚したそれ以外捕虜は、カナワクのように、カナダ人インディアン共存する集落余生を送るべく、自らの意思残った捕虜解放交換向けて交渉始まったのが1704年の末で、1706年の末まで交渉続いた。この交渉では、捕虜無関係なこと(たとえば、イングランド捕虜となっているフランス兵、ピエール・メゾネ・ディ・バティストのことなど)、そして、イングランドとフランス植民地間の中立を保つために、広範囲条約を結ぶ可能性などの、より大きな事案で話がもつれたディアフィールド住民であるジョン・シェルダン、ジョン・ウエルズにより部分的に仲裁がなされ、捕虜何人かが、1706年8月ボストン戻された。政治的な理由から、捕虜返還うまくいくことを望んでいたダドリーは、バティスト含めたフランス捕虜解放した。他の捕虜帰国を望む者は、1706年11月までにボストン送られた。

※この「捕虜の連行と交換」の解説は、「ディアフィールド奇襲」の解説の一部です。
「捕虜の連行と交換」を含む「ディアフィールド奇襲」の記事については、「ディアフィールド奇襲」の概要を参照ください。

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