捕虜の移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:50 UTC 版)
捕虜を含む生存者はオロンガポの海軍基地内にあったテニスコートに数日間収容された。オロンガポに待機中、捕虜は救護品を与えられたものの不衛生な状態に置かれ、また、度重なる虐待により命を落とす者も現れた。やがて、捕虜一行はサンフェルナンドに連れて行かれ、その中の衰弱したり負傷した15名の捕虜は「マニラで治療させる」という名目でトラックに押し込められたあと、移送されることになっていた。しかし実際には15名はサンフェルナンド郊外で斬首されており、近辺の集団墓地に投棄されていたことが明らかになった。残りの捕虜は12月24日から25日にかけて、15両ばかりの貨車で北サンフェルナンドに移送された。1,000名を越える捕虜は2隻の日本の輸送船、「江ノ浦丸」(日本郵船、6,968トン)と「伯剌西爾丸」(大洋興業、5,859トン)に収容される。当初は「伯剌西爾丸」だけで北サンフェルナンドからの輸送を行う予定であったが、のちに「江ノ浦丸」が追加された。2隻に分乗した捕虜は高雄に移されたのち、同地で1945年を迎えた。 捕虜のうち、イギリス人とオランダ人のグループが「伯剌西爾丸」から「江ノ浦丸」に移されたが、のちにはほかの捕虜も全員「江ノ浦丸」に移されることとなった。その間にも捕虜の死亡は相次ぎ、1月1日から4日までの間に「伯剌西爾丸」で5名、「江ノ浦丸」で4名の捕虜が亡くなり、1月6日にも「伯剌西爾丸」乗船中の捕虜のうち10名が亡くなった。1月9日に「江ノ浦丸」が高雄港内で空襲により被弾した際に少なくとも252名が死亡した。残りの捕虜890名のうち450名は「伯剌西爾丸」によって日本に送られて1月29日に門司に到着して九州、朝鮮半島、満州に分散され、3か月以内に100名以上が獄死、一説には福岡県内の5つの捕虜収容所で500名以上が獄死したとされた。残りは台湾に取り残されたままとなった。「鴨緑丸」に収容された捕虜は、12月13日時点で1,600名余いたものの終戦時には約400名にまで減り、1945年8月から9月にかけて九州、朝鮮、満州および台湾の各収容所から解放されていった。
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