捕虜の帰還とは? わかりやすく解説

捕虜の帰還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:08 UTC 版)

白村江の戦い」の記事における「捕虜の帰還」の解説

『日本書紀』によれば白村江の戦いの後の671年11月に、「唐国使人郭務悰六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗り倶に比知嶋(比珍島)に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人上陸したこの中には、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の4人が含まれており、捕虜返還前提とした上での唐への軍事協力目的であったとされる684年天武13年)、使連子首(いつかいのむらじこびと・筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)が、遣唐留学生であった土師宿禰甥(はじのすくねおい)・白猪史宝然(しらいのふびとほね)らとともに新羅経由帰国したのが、記録現れる最初白村江の戦いにおける捕虜帰還である。 690年持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後土師連富(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元実児(ゆげのむらじもとさねこ)の四人が、唐で日本襲撃計画聞き朝廷奏上したいが帰れないことを憂えたその時あなたは、富らに『私を奴隷売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫薩夜麻や富らは日本帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷尊び国へ忠誠示したことを喜ぶ」と詔して表彰し大伴部博麻一族土地などの褒美与えた幕末尊王攘夷思想勃興する中、文久年間、この大伴部博麻顕彰する碑が地元福岡県八女市)に建てられ現存している。 707年讃岐国錦部刀良にしこりのとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部形見(こせべのかたみ)らも帰還した。このほかにも、696年報賞受けた物部薬もののべのくすり)、壬生諸石(みぶのもろし)の例が知られている。

※この「捕虜の帰還」の解説は、「白村江の戦い」の解説の一部です。
「捕虜の帰還」を含む「白村江の戦い」の記事については、「白村江の戦い」の概要を参照ください。

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