筑紫薩夜麻
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筑紫 薩夜麻(つくし の さちやま)は、飛鳥時代の豪族。名は薩野馬とも表記されている。姓は君。
- ^ ここで言う「天智天皇の3年」は、天皇が即位して3年目という意味と推測され、称制9年のことである。そのように考えると、上記の史料にある「天智天皇10年」(即位4年)に帰国したという記述と符合する。
- ^ a b c d e f g h 近藤浩一 『白村江直後における熊津都督府の対倭外交』『人文×社会』編集委員会〈人文×社会 1 (4)〉、2021年12月15日、30-33頁。
- ^ 開府儀同三司新羅王金法敏・熊津都尉扶余隆,盟干百済之熊津城。初百済自扶余璋与高麗連和,屢侵新羅之地,新羅遣使入朝求救,相望於路。及蘇定方既平百済軍回,余衆又叛。鎮守使劉仁願・劉仁軌等,経略数年,漸平之。詔扶余隆,及令与新羅和好。至是,刑白馬而盟。先祀神祇及川谷之神,而後歃血。其盟文曰,…。劉仁軌之辞也。歃訖,埋書弊弊於壇下之吉地,蔵其盟書於新羅之廟。於是,仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四国使,浮海西還,以赴太山之下。
— 冊府元亀、外臣部二十六、盟誓・高宗麟徳二年年八月条 - ^ 同盟于熊津城。劉仁軌以新羅・百済・耽羅・倭国使者浮海西還,会祠泰山。
— 資治通鑑、麟徳二年八月条 - ^ 麟徳二年,封泰山。仁軌,領新羅及百済・耽羅・倭四国酋長,赴会。
— 旧唐書、劉仁軌伝 - ^ 十一月甲午朔癸卯,対馬国司,遣使於筑紫大宰府言,月生二日,沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人,従唐来曰,唐国使人郭務悰等六百人,送使沙宅孫登等一千四百人,総合二千人,乗船册七隻,倶泊於比知島,相謂之曰,今吾輩人船数衆,忽然到彼,恐彼防人,驚駭射戦,乃遣道文等,予稍披陳来朝之。
— 日本書紀、天智十年十一月甲午朔癸卯条 - ^ 詔軍丁筑紫国上陽咩郡人大伴部博麻曰,於天豊財重日足姫天皇七年,救百済之役,汝為唐軍見虜。洎天命開別天皇三年,土師連富杼・氷連老・筑紫君薩野馬・弓削連元宝児,四人,思欲奏聞唐人所計,縁無衣糧,憂不能達。
— 日本書紀、持統四年十月乙丑条
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