捕虜の処遇と方針
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:12 UTC 版)
「日独戦ドイツ兵捕虜」の記事における「捕虜の処遇と方針」の解説
陸軍省は、1904年 - 1905年にロシア人捕虜に関する規定を決め、捕虜に対する人道的な扱いを定めた。これは1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定が適用された最初の例であった。捕虜及び傷者の扱いは、赤十字国際委員会により人道的であると認められた。しかし一方では地域の駐屯軍の下にいる収容所の指揮官にその処遇の最終的なあり方は依存していたため、収容所側の日本人の態度とドイツ人捕虜内の世論は場所によって様々に異なっていた。しかし同時期の他国の捕虜の扱いと比較しても、日本は収容総数がそれ程多くなかったこともあり、総じて日本側の待遇は十分耐えうるもので、関係機関の指導により環境の改善もなされた。 捕虜の脱走未遂発生のため、1915年以降は戦争俘虜に関する規定が厳格化。また現行の戦時国際法に反し、日本は脱走者に規則上のみならず刑法上でも処罰を課す方針をとったために、再捕捉された捕虜が有罪判決を受けることもあった。脱走計画の黙認、幇助も処罰の対象だったため、収容所の職員たちもまた管理体制を厳しくした。
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