捕虜の処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/15 14:47 UTC 版)
スイス側の資料の記述は、シャルルが助命を保障したので守備隊は降伏したということで一致している。シャルルに同行していた歴史家パニガローラは、守備隊は突進公の慈悲に身を委ねたのであり、その処遇の決定権はシャルルにあったと主張している。シャルルは守備隊412人全員を処刑するよう命じた。その情景を描写するにあたってパニガローラは「衝撃的で恐ろしいできごと」と記し、スイス国内は恐怖に満たされるに違いないと述べている。1476年2月28日、犠牲者たち全てはシャルルの天幕の側を引き立てられ、木に吊されるか湖に沈められた。処刑には4時間かかった。
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