捕虜の取り扱い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 01:39 UTC 版)
ウェーク島の捕虜のうち、技術者を除いた約1,200名のアメリカ軍の捕虜が、陸戦隊を輸送してきた新田丸で上海に送られることとなったが、その途上で事件が起こった。 船内は厳しい規律と潜水艦の攻撃への不安から異様な雰囲気に包まれた。そんな最中、1人のアメリカ軍の捕虜が警備兵(呉海兵団から派遣)の銃を奪取しようとする企てを起こし、同じようなことが複数回あった。なおこれは戦時国際法で降伏した捕虜として禁止されている行為である。 横浜港へ入港し途中経過を軍令部に報告した際、「規律に則って処分せよ」と命令が出た。そこで、新田丸が九州近海にさしかかった際に警備兵によって5名の反乱を起こそうとした捕虜が船長及び指導者の簡易裁判の上で死刑となり、遺体は水葬した。 戦後、GHQによってこの事件が調べられ、この事件の関係者で戦後まで生き残っていた斎藤利夫少佐を戦犯として取調べた。最初は嫌疑なしとして釈放したものの、処分を命じた当事者が戦死しており、責任者が不在であることは適当ではないということになり斎藤を処罰することとなった。これを察知した斎藤は1953年2月まで逃避行を続けた。また、新田丸関係者も高級幹部が亡くなっていたので機関長と船医が聴取された。 実際のところ、1941年12月26日に呉鎮守府司令長官豊田副武大将から斎藤に捕虜の取扱に関する命令が出されており、その中に「必要アルトキハ武力ヲ行使スルコトヲ得」とあり、武力行使に関しては斎藤にある程度の権限が与えられていたとも考えられる。そのほか、斎藤には新田丸が不測の事態に陥った際には、船長に代わって新田丸の指揮を執る権限も与えられていた。 ウェーク島に残留した捕虜のうち、病人などが1942年5月と11月に日本に移送された。
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