新田丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 22:19 UTC 版)
「冲鷹 (空母)」も参照 第一船「新田丸」は昭和15年3月23日に竣工し、東京港芝浦埠頭に回航されて皇族の方々、高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王、賀陽宮恒憲王、久邇宮朝融王および梨本宮守正王の台覧を仰ぎ、次いで横浜港に回航して久米正雄や大仏次郎ら名士を乗せ、披露航海を行った。5月1日に上海を振り出しに処女航海を行い、以後昭和16年8月5日に横浜港に帰着するまで七度の商業航海を行った。昭和16年9月12日付で日本海軍に徴傭され、一般徴傭船となる。「八幡丸」および「春日丸」とは違って直ちに空母に改装されなかったが、これに関しては「当時進められていた日米交渉の妥結のため、近衛文麿首相、フランクリン・ルーズベルト大統領の日米両首脳が「新田丸」に乗船して会談を行うために温存された」という噂が流れた。 11月に空挺部隊を高雄まで輸送したのち、12月8日の太平洋戦争開戦を挟んでウェーク島の戦いの末に占領したウェーク島へ向けて上海海軍特別陸戦隊を輸送し、帰途には戦いで発生した約1,200名の捕虜の輸送任務に就く。ところが、一人の捕虜が警備兵の銃を奪おうとする企てが何度も起こり、事の次第を軍令部に報告したところ、「規律に則って処分せよ」と命令が出たため、九州近海にさしかかった際に5名の捕虜が殺害され、水葬に付された。警備兵は呉海兵団から編成されており、斎藤利夫海軍大尉が指揮していたが、呉鎮守府司令長官豊田副武大将から昭和16年12月26日付で斎藤に対し、「必要アルトキハ武力ヲ行使スルコトヲ得」と、武力行使に関しては斎藤にある程度の権限を与え、新田丸が不測の事態に陥った際には、斎藤が船長に代わって「新田丸」の指揮を執ることとする命令が出された。このため、戦争終結後に斎藤を戦犯として追及しようとしたが、動きを察知した斎藤は1953年(昭和28年)まで逃亡を続けた。「新田丸」関係者も高級幹部が亡くなっていたので機関長と船医が聴取された。 その後、1942年(昭和17年)5月1日付でいったん解傭されて空母への改装工事が始まり、8月1日付で海軍省に買収され、8月20日付で「冲鷹」と命名され空母に編入された。空母としての改装工事が終わったのは11月25日である。
※この「新田丸」の解説は、「新田丸級貨客船」の解説の一部です。
「新田丸」を含む「新田丸級貨客船」の記事については、「新田丸級貨客船」の概要を参照ください。
新田丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 03:28 UTC 版)
太平洋戦争開戦当初、「新田丸」は運送艦として用いられた。1941年(昭和16年)12月中旬、ウェーク島の戦い終結後の日本軍守備隊を増強するため、新田丸は上海海軍特別陸戦隊(長光少佐、海兵55期)をウェーク島(大鳥島)へ輸送することになった。新田丸は上海市を出発、横須賀とロンゲラップ島を経由して、1942年(昭和17年)1月12日ウェーク島に到着した。第六十五警備部隊が新編され、ウェーク島守備部隊となった。 帰路の新田丸は、米兵捕虜約1,000-1,200名をウェーク島から本土へ輸送した。この捕虜輸送任務にあたり、豊田副武呉鎮守府長官は「必要ならば武力を行使して良い」と指示していた。斎藤利夫大尉以下の警戒隊は58名しかおらず、新田丸船内で幾度か小競り合いが起きた。1月18日、横浜港に到着する。報告を受けた軍令部部員のK中佐は斎藤大尉を厳しく叱責し、船内取締規約を破ったとみなされた捕虜5名の処刑を命じた。新田丸は米兵捕虜を上海に輸送したが、その際に捕虜5名が処刑され、遺体は米国旗に包まれて水葬に伏された。 その後も、新田丸は兵員輸送任務に投入された。4月18日のドーリットル空襲時には、横浜および横須賀に所在。5月1日、解傭される。6月9日、新田丸は呉に向け横須賀を出発した。
※この「新田丸」の解説は、「冲鷹 (空母)」の解説の一部です。
「新田丸」を含む「冲鷹 (空母)」の記事については、「冲鷹 (空母)」の概要を参照ください。
- 新田丸のページへのリンク