建造前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 03:28 UTC 版)
詳細は「新田丸級貨客船」を参照 冲鷹の前身である新田丸は、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で、またドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルスト、グナイゼナウ、ポツダム)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで、日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第1船である。新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャルNYKに因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている。 新田丸は三菱重工業長崎造船所で建造され、1938年(昭和13年)5月9日起工。1939年(昭和14年)5月20日、進水。1940年(昭和15年)3月23日に竣工。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた。天洋丸、浅間丸、氷川丸といったそれまでの客船が西洋式の船内装飾だったのに対し、新田丸は中村順平(大阪商船の天津航路用だった長城丸の船内装飾を担当)、村野藤吾、山下寿郎、松田軍平ら建築家、公室や客室は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣、特別室は川島甚兵衞と髙島屋が担当した新日本様式だった。 一等ラウンジは六歌仙をエッチングで描き出し、それを松田権六による蒔絵で囲んでいた。前部エントラス・ホールは国産の天然木材をクリアラッカーで仕上げ、アルマイト板に尾長鶏が描かれていた。一等食堂のサイドボードは尾形光琳の紅白梅屏風を模した蒔絵が扉となり、開けるとスクリーンが現れた。これらの装飾は航空母艦の改造時に廃棄された。 竣工直後の1940年(昭和15年)4月10日、秩父宮雍仁親王と勢津子夫妻、高松宮宣仁親王と喜久子夫妻、三笠宮崇仁親王達は芝浦埠頭に停泊中の新田丸を視察する。その後、新田丸は第二次世界大戦の影響でサンフランシスコ航路に就航したが、日米関係の悪化に伴い航路は休止される。1941年(昭和16年)6月の時点で、海軍側は新田丸の空母改造を要望していた。8月、近衛文麿内閣総理大臣や吉田善吾(海軍側首席随員)は新田丸に乗船、最上型巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、最上、三隈)に護衛され、ハワイ諸島オアフ島の真珠湾に入港する計画がたてられた。近衛首相はフランクリン・ルーズベルト大統領と会談する予定だったという。だが、近衛とルーズベルトの会談は実現しなかった。9月12日、新田丸は日本海軍に徴用された。
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