建造及び艦歴
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「ノヴゴロド (砲艦)」の記事における「建造及び艦歴」の解説
1854年から1856年のクリミア戦争終了後、パリ条約では、黒海におけるロシア帝国海軍の軍備を、わずか排水量810tのコルベット6隻に制限した。そこでセヴァストポリの帝国造船所はロシア汽船貿易協会に貸し出された。これは、どのようなものであれ黒海の任務用に建造される装甲艦はサンクトペテルブルクで建造し、分解した後に港まで船舶輸送し、組立て直す必要があることを意味していた。ロシアが条約の上記条項を廃止した時、長らく閉鎖されていたムィコラーイウの施設が選ばれた。1870年、海軍は造船所を再開するため、イギリスに設備と工具の発注を開始した。 1871年1月、アドミラルティ造船所に臨時の造船台が作られ、4月13日にノヴゴロドの建造が開始された。この名称はノヴゴロド市の名前にちなんだものである。速やかな建造のために2交代制のシフトが用いられた。艦の船体は12月29日に完成し、この時に公式の起工式が開かれた。船体の分解は2週間以内に行なわれ、最初に送り出された部品は1872年4月2日にムィコラーイウに到着した。8日後、再組立てが特製の造船台で開始された。サンクトペテルブルクとムィコラーイウ間には鉄道が敷かれておらず、各部品はオデッサに鉄道輸送する必要があった。ここで荷物は川はしけと汽船に積み替えられた。ボイラーは非常に大きく、積み替えるためにはバルト海からオデッサまで貨物船で出荷しなければならなかった。建造は部品輸送と熟練した労働力の不足のため、その年の後半まで遅れた。1873年6月2日、艦はようやく進水し、この式にはロシア大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが出席していた。ノブゴロドの武器の装備は9月に行なわれた。283万ルーブルの費用を投じ、翌年この艦は任務に就いた。 1873年から1874年の冬の間、小さな上部構造物がバーベットの後方に作られ、さらに密閉構造の操舵室がこの上に設けられた。加えて、上部構造物の前部が改修され、船首に向かってオーバーハングしていた。また、突出した形の艦橋が追加された。同時期に外装水雷用の伸縮式ブームが備えられている。1875年、艦はタガンログへの訪問を行ない、その10月にはクリミア沿岸に沿って旅行中のエドワード・リード卿の歓迎を行なった。露土戦争中のこの艦はオデッサ防衛の任に当たった。また艦の兵装が口径86mmの4ポンド砲2門で強化されている。艦後方の上部構造物に据えられたこの砲は、水雷艇に対抗して艦を守るものだった。4ポンド砲は5.74kgの砲弾を撃ち出し、射程は3,294mだった。この期間中、海軍ではこの艦のもっとも外側の機関が速力にほぼ寄与していないと理解した。また蒸気容量が機関全てに対して不足していることから、1876年から1877年にかけてこれら外方の機関は撤去された。この処置はノヴゴロドの総出力を2,000ihp(1500kW)に減らし、艦の速力は約6ノットになった。 戦後にこの艦は、ドナウ川河口にあるルーマニア都市のスリナへと航行し、機関室の天窓を防御する装甲カバーと、瞰射を防ぐバーベット中央部のハッチを受け取った。1880年代のノヴゴロドはセヴァストポリに駐留し、毎年夏には短い巡航に出かけた。1883年、砲艦ヴィツェ・アドミラル・ポポーフがボイラーを交換した後、ノヴゴロドはこの艦の磨き直したボイラーを受領した。1892年2月13日、艦は沿岸防衛用の装甲艦に再分類され、この時には艦の兵装がホチキス製の37mm5砲身回転式機関砲、2門で増強された。これらの機関砲は2,778mの射程を持ち、発射率は1分あたり32発だった。翌年、この艦の船体と機関は劣化した状態にあった。1903年5月1日、艦は処分のためにムィコラーイウの港湾委員会に引き渡され、海軍のリストから抹消された。この後、船は倉庫船として利用された。1908年、ノヴゴロドをブルガリアに売却する申し込みがなされたが、この提案は応じられなかった。1911年12月、この船はスクラップとして売却された。
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