露土戦争とは? わかりやすく解説

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ろと‐せんそう〔‐センサウ〕【露土戦争】

読み方:ろとせんそう

ロシアトルコ戦争


露土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 15:25 UTC 版)

露土戦争(ろとせんそう)は、ロシア帝国もしくはその前身国家とオスマン帝国の戦争である。オスマン帝国とロシアの間の戦争は以下のようにしばしば起こっているが、狭義の露土戦争は1877年-1878年の戦争をいう[1]

日本では1768年-1774年の戦争を第一次ロシア・トルコ(露土)戦争、1787年-1791年の戦争を第二次ロシア・トルコ(露土)戦争、1806年-1812年の戦争を第三次ロシア・トルコ(露土)戦争、 1828年-1829年の戦争を第四次ロシア・トルコ(露土)戦争と称することも一般化している[2]

脚注

参考文献

  • 朝日新聞社(編) 編「露土戦争」『世界史を読む事典』朝日新聞社〈地域からの世界史20〉、1994年1月。ISBN 4-02-258515-3 
  • 新人物往来社(編) 編「ロシア・トルコ戦争(露土戦争)」『別冊歴史読本71 世界「戦史」総覧』新人物往来社〈事典シリーズ36〉、1998年6月。 

関連項目

外部リンク


露土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:42 UTC 版)

マフムト2世」の記事における「露土戦争」の解説

フランス包囲網である対仏大同盟参画したオスマン帝国だが、当時ヨーロッパ公法オスマン帝国には適用されず、ウィーン会議にすら出席できなかった。しかも、1806年始まった露土戦争は1809年再開された。これに対抗するためにオスマン帝国同年イギリス秘密同盟して対抗しようとしたが、1812年オスマン側は敗北しロシアブカレスト条約締結しベッサラビア割譲しプルート川国境にして、さらに一部コーカサス領土ロシア帝国奪われてしまう有様であったブカレスト条約ではセルビア自治権与えることが明記されたが、オスマン側はなかなかそれ実行しなかったため、1815年第二次セルビア蜂起勃発2年後にはセルビア自治公国承認した。 それでも、大半帝国領土は名目的には保持されヨーロッパ列強思惑もあり、戦後ウィーン体制一員となった

※この「露土戦争」の解説は、「マフムト2世」の解説の一部です。
「露土戦争」を含む「マフムト2世」の記事については、「マフムト2世」の概要を参照ください。

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