戦闘の推移とは? わかりやすく解説

戦闘の推移

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島原の乱」の記事における「戦闘の推移」の解説

乱の発生知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌副使として石谷貞清派遣した。重昌に率いられ九州諸藩による討伐軍は原城包囲して再三攻め寄せ12月10日20日総攻撃を行うがことごとく敗走させられた。城の守り堅く一揆軍団結して戦意高かったが、討伐軍は諸藩寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌大名としては禄が小さく大大名の多い九州諸侯はこれに従わなかったため、軍としての統率がとれておらず、戦意低かったため攻撃成功しなかったと考えられる。『常山紀談』には重昌が派遣される際、柳生宗矩が”小藩主(重昌の領地である深溝藩石高1万5,000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名統制がとれず討伐失敗する”と考えて反対したという話がある。 事態重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中松平信綱副将格として戸田氏鉄らの派遣決定した。功を奪われることを恐れ焦った板倉重昌寛永15年1月1日1638年2月14日)に信綱到着前に乱を平定しよう再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害出し総大将の重昌は鉄砲直撃受けて戦死し攻撃失敗終わった。この報せ接した幕府1月10日2月24日)、増援として水野勝成小笠原忠真出陣命じる。 新たに着陣した信綱率いる、九州諸侯増援得て12上の軍勢膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲した大目付中根正盛は、与力(諜報員)を派遣して反乱軍の動き詳細に調べさせ、信綱配下望月与右衛門甲賀忍者一隊原城内に潜入して兵糧残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻め作戦切り替えたという。 1月6日長崎奉行依頼受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍提供し、さらにデ・ライプ号を島原派遣し、海から城内艦砲射撃行った。しかし砲撃目立った効果見られず、また細川忠利諸将から外国人助けを受けることへの批判高まったため、信綱は砲撃中止させた。しかし信綱は、ポルトガルからの援軍期待している一揆軍心理的に大きな衝撃与えることこそが狙いで、日本の恥との批判的外れであると反論している。実際この砲撃による破壊効果少なかった一揆軍士気削ぐ効果はあったと考えられている。 このオランダネーデルラント連邦共和国)の援助について、当時オランダポルトガルは、オランダ・ポルトガル戦争英語版)(1603〜1663)を戦っており、日本との貿易独占して敵国ポルトガル排除しようとするオランダ思惑もあったとされるまた、中世研究家服部英雄一揆勢力ポルトガルカトリック国)と結びつき幕府側はオランダプロテスタント国)と結びついた。このあと鎖国でのポルトガル排除オランダとの軍事同盟結果考察している。 討伐軍は密かに使者矢文原城内に送りキリシタンでなく強制的に一揆参加させられた者は助命する旨を伝えて一揆軍投降呼びかけたが、成功しなかった。更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹投降勧告の手紙を書かせて城中送ったが、一揆軍はこれを拒否している。一揆軍原城断崖絶壁を海まで降りて海藻兵糧足しにした。松平信綱は、城外討って出た一揆軍死体の胃を見分した結果海藻しかないのを見て食料尽きかけている事を知ったという。 2月24日4月8日)、信綱の陣中諸将集まり軍議が行われ、この席で戸田氏鉄兵糧攻め継続を、水野勝成総攻撃主張するが、乱が長期間鎮圧されないと幕府威信関わることもあり、信綱は総攻撃を行うことを決定したその後雨天続き総攻撃2月28日延期されるが、鍋島勝茂抜け駆けにより、予定前日総攻撃開始され諸大名続々攻撃開始した兵糧攻め効果城内食料弾薬尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃原城落城天草四郎討ち取られ一揆軍皆殺しにされて乱は鎮圧された。『常山紀談』によると、このとき本丸への一番乗り水野勝成嫡子水野勝俊有馬直純嫡子有馬康純争ったという。 幕府反乱軍への処断苛烈極め島原半島南目と天草諸島カトリック信徒は、乱への参加強制逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。わずかに残され信者たちは深く潜伏し隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府禁教策を強化し鎖国政策推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地廃城となった城郭反乱拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった全期間通じて幕府軍総勢籠城軍概要以下の通りである。なお、攻勢守勢双方かなりの数の浪人参加していた為、兵力石高から考えた大名固有の兵数上回っている。天草三氏(天草志岐本)のうち取り潰され天草志岐両家浪人指導層となり一揆軍参加本家細川家仕官しており、細川家臣として幕府軍参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人参加している。また、島原及び天草地方全ての住民一揆参加したわけではなく幕府軍加わったものも少なくなかった

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戦闘の推移

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ルワンダ紛争」の記事における「戦闘の推移」の解説

1990年10月1日RPFルワンダ北部侵攻し内戦勃発した1993年8月4日ルワンダ愛国戦線猛攻国際世論高まりにより、アルーシャアルーシャ協定結ばれ和平合意至った10月5日国際連合ルワンダ支援団設立される

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ミンデンの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説

7月31日ブラウンシュヴァイク公フェルディナント敵軍攻撃もしくは別の機動のため、出発用意整えているという印象を抱く。それに備えるため、彼は騎兵砲兵対し午前1時に出発するべく準備整えるよう命令した一方歩兵部隊は特に命令が下るまで待機することとされた。公は敵軍が、まずトーテンハウゼン付近に展開していたヴァンゲンハイム軍団攻撃するものと思ったのであるその場合に備え、彼はハーレンとシュテンマーを結ぶ戦線フランス軍側面突こう計画した同時に世子カール・ヴィルヘルム・フェルディナント率い分遣隊は、フランス軍パーダーボルンから分断するためにブリサック公指揮下の部隊攻撃し、ゴーフェルト(ドイツ語版)の占領することになっていた。 コンタード侯は7月31日、ブリサック公の別動隊ビュンデで公世子カール軍団遭遇した聞く午後6時軍議召集し指揮下の士官翌日敵軍奇襲するつもりであることを通知した。同軍は午後10時出発できるよう準備整え夜間にバスタウ川を渡ることとされた。その後ハーレンとマルベルゲンの間で陣地構築する予定であった当時戦術慣行反し騎兵隊両翼ではなくて中央配置された。なぜならそこの地勢は、その行動により適していると思われたからである。ブロイ公軍団ヴェーザー川渡って翌朝ニコライ師団とともに連合軍のヴァンゲンハイム軍団攻撃する任務受けた続いて友軍主力拘束されているであろう連合軍主力側面を突くことになっていたのであるブラウンシュヴァイク公フェルディナント43大隊騎兵61個中隊、総勢40,000名及び重砲107門を率いていた。それに対し、コンタード侯は82大隊85騎兵中隊及び大砲86門の合計55,000名を動員することができた。

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イスラーム教徒のペルシア征服」の記事における「戦闘の推移」の解説

イスラーム教軍は当初アラビア半島接すメソポタミア地域侵攻しサーサーン朝軍と争ったサーサーン朝軍はイスラーム教軍を上回る兵員動員したが、ハーリド・イブン=アル=ワリード指揮の元イスラーム教軍はワラジャ、フィラーズ、クーファ戦いでサーサーン朝軍に連勝し633年4月から634年1月までの1年足らずの間にメソポタミアのほとんどを支配下に置くこととなった最終的にカーディシーヤの戦いイスラーム教徒サーサーン朝の都クテシフォンまで攻略しペルシア帝国勢力メソポタミアから駆逐することに成功した第2代正統カリフウマル・イブン=ハッターブ当初ペルシア高原に兵を進めることには慎重であったが、側近たちはこの機会に完全にペルシア帝国を完全に滅ぼすことを勧めたウマル最終的にペルシア帝国二度とムスリム脅威となりえないよう、その息の根を完全に止めペルシアイスラーム領土加えることを決意した642年メソポタミアペルシア高原隔てザグロス山脈超えて侵攻してきたイスラーム教30,000対しヤズデギルド3世100,000超える兵力動員し現在のハマダーン程近いニハーヴァンドでこれを迎え撃ったニハーヴァンドの戦い)。しかし士気錬度の面で劣っていたサーサーン朝軍はこの戦いでも大惨敗喫したヤズデギルド3世東方領土逃亡したが、651年部下の裏切り殺された。この戦い最後にサーサーン朝組織だった抵抗終えた廃帝ヤズデギルド3世息子ペーローズ3世はじめとする皇族たちはパミール高原越えて唐に亡命し、唐の援助受けてササン朝復興図ったが、ペルシアと唐の地理的な隔絶もあってそれを果たすことはできなかった。

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露土戦争 (1768年-1774年)」の記事における「戦闘の推移」の解説

1768年起きたコリーイの乱反乱軍一部オスマン帝国支配したバルタ町にも攻め入ったため、オスマン帝国ロシア帝国宣戦し新たな露土戦争勃発した。 「en:Battle of Aspindza」および「en:Battle of Nauplia (1770)」も参照 「オルローフの反攻ロシア語版ギリシア語版、英語版)」および「チェスマの海戦ロシア語版トルコ語版、英語版)」も参照en:Battle of Larga」および「en:Battle of Kagul」も参照en:Battle of Patras」も参照 ポーランド制圧終えたアレクサンドル・スヴォーロフこの方面に派遣され1773年4月17日アストラハン歩兵連隊コサック騎兵連隊指揮引き継いだスヴォーロフ部隊はサルティコフ中将第一軍隷下置かれ全軍右翼についた1773年6月28日スヴォーロフドナウ川近郊築かれオスマン軍野営地奇襲し勝利したオスマン軍ドナウ川越えて撤退しロシアルーマニア制してトルコ侵攻橋頭堡築いた1774年4月スヴォーロフバルカン半島侵攻し6月20日、コズルドジで8,000名の軍で40,000名のオスマン軍撃破した(コズルドジの戦いロシア語版英語版)、ケルチ海峡海戦ロシア語版英語版))。これはオスマン帝国にとって決定的な打撃となった

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リダニヤの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説

トゥーマーンバーイはサラヒア(Salahia)まで進軍することを決意し、そこで砂漠の行軍により憔悴したオスマン軍遭遇したが、首長らの反対に屈しカイロ郊外のリダニヤに陣を敷くことにした。オスマン帝国戦闘をすることなくリダニヤに達し1月22日戦闘始まった。トゥーマーンバーイは自らオスマン軍歩兵切り込みセリム1世幕営にまで達したが、結局エジプト軍ナイル川の上流へ敗走したオスマン軍カイロ侵入し暴虐限り尽くされた。翌日到着した宰相兵士らの狼藉やめさせるため、カリフであるムタワッキル3世慈悲求め布告を出させたが、狼藉がやむことはなかった。数日後セリム1世ムタワッキル3世カイロ入城すると、ようやく略奪はやんだ。 翌日の夜、ベドウィン加勢されたトゥーマーンバーイが再び現れ一時オスマン軍カイロから追い散らした。しかし圧倒的な勢力で再び攻め寄せたオスマン軍前にスルタンナイル渡ってギザ逃亡し、後に上エジプト亡命した勝利満足したセリム1世恩赦意味する紅白の旗を幕営掲げさせたが、マムルーク恩赦対象から外された。マムルークを匿ったものは死罪にすると宣言され、これにより発見され800人が斬首された。

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ライヒェンバッハの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説

オーストリア軍8月15日、ズィルバーベルクの周辺戦力(4,7000名から4,8000名)を結集し8月16日午前2時に3個の戦列分かれ、パイラウに展開するプロイセン軍左翼攻撃するべく前進開始するラシー大将率い右側戦列はシューンヴァルデ(Schönwalde)からハーベンドルフ(英語版)へ進みオドネル大将指揮下の中央の戦列はランゲンビーラウ(Langenbielau)へ、そしてラウドン大将指揮下の左の戦列はノイビーラウ(Neubielau)へ向かったブレンターノ中将率い前衛部隊は、激し戦闘経てプロイセン軍をランゲンビーラウから駆逐し同地占領した正午頃オーストリア軍はハーベンドルフとヘアラインベルクを結ぶ線上移動しテント設営し始める。同軍による、さらなる攻撃翌日以降ずれ込むものと思われた。 しかし午後3時頃、オーストリア軍テントを畳むと再び移動開始する前衛部隊中央の戦列はパイラウの中央および下流通過したが、フィッシャーベルクからプロイセン軍砲兵歩兵迎撃を受け、足止めされた。そして両軍砲兵による砲火応酬が始まる。同時にラシー大将指揮下のオーストリア軍右翼が、丘陵地帯隠れつつパイラウ上流から前進した。またベック大将率い強力な部隊が、察知されことなくプロイセン軍迂回し、フィッシャーベルクを側面および後背から襲撃するベーヴェルン公はペータースヴァルダウから来援する大王待っていたので、その場防衛していた。そしてベック指揮下のオーストリア軍を、ひとまずショーバーグルント(Schobergrund)の湿地帯足止めすることができた。ハーベンスドルフの高地から戦いの推移見ていたダウン元帥は、午後5時半ラシー大将へ、フィッシャーベルクに対す攻撃中止撤退命じたライヒェンバッハに向かう、強力なプロイセン軍部隊存在報告されたからである。このようにしてベーヴェルン公とその部隊は完全に迂回されずに済んだ午後6時にはヴェルナー中将が、ライヒェンバッハ右側臨みつつ、有力な騎兵部隊および騎馬砲兵全て大砲16門)をもって前進し状況介入した。またメレンドルフ少将指揮下の9個大隊も、それに続く。攻撃目標となったのは、パイラウの中央および下流から襲来するオーストリア軍である。これら騎兵部隊行動は、砲兵援護受けていた。 オーストリア側による自軍左翼への増援は、もはや間に合わなかった。オーストリア騎兵プロイセン騎兵によって「一気制圧」され、パイレ川(Peile)に追い落とされたので、ブレンターノ中将指揮下の左翼部隊の撤収強いられたその後ダウン元帥ラシー大将ブレンターノ中将戦闘中断と、ハーベンドルフの陣への帰還命じる。ベック大将も再び退かねばならなかった。ヴェルナー中将迅速な前進が、プロイセン軍勝利をもたらしたのである

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ドームシュタットルの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説

輸送部隊6月26日、トロッパウを出発した。この部隊には、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・デア・モーゼル(ドイツ語版大佐率い有力な護衛付いていた。翌日、彼は隊列を再び集結させるべく停止しなくてはいけなかった。この日、ラウドン少将シュテルンベルク英語版)に到着し輸送部隊フリードリヒ2世との連絡絶たれるほど上手くその一帯布陣する。ラウドン少将は、これを受けてフリードリヒ2世オルミュッツから優勢な軍団支援のため派遣するだろうと予測せざるを得ず6月28日にグンダースドルフ(ドイツ語版)へ進軍し、そこで高地占領した。そして輸送部隊が近づいて来ると、まだ劣勢であったにも拘らず攻撃決意するプロイセン軍防戦をもってこれに応じ大砲使用するためいくつかの丘陵占領した損害大きかったこの戦いは、5時間ほど続く。その際オーストリア軍フザール100台の荷車破壊したラウドンは、ツィーテン中将から背後突かれ恐れがあったので兵を退いた。 この襲撃は、特に御者の間に著し混乱巻き起こした。ツィーテン中将指揮下の部隊とともに輸送部隊合流しても、秩序回復丸一日をかけねばならなかったのである。この遅れによってズィスコヴィッツ少将はアルトリーベとドームシュタットルの中間到達しラウドン少将その後の策を協議することができた。6月30日護送部隊移動開始する。そして一時的に40キロメートルほどの隊列伸びる騎兵隊右側から、歩兵隊左側からこれ護衛していた。 隠れたオーストリア軍は、前衛100台ほどの荷車やり過ごすその後、ズィスコヴィッツ少将荷車左側から襲撃した砲弾先頭荷車の馬を殺傷したので、輸送部隊全体停止追い込まれる。ツィーテン中将荷車円陣を組ませた。そこで歩兵3個大隊大砲6門が守備に就く。そして兵の一部率いオーストリア軍攻めかかるいくつかの部隊撃退した。しかしオーストリアフザールによって、再び荷車城塞の中へ押し戻される。今やラウドン少将も、右側から攻め寄せていた。彼は弾薬積んだ荷車いくつも爆破し輸送部隊全体大混乱陥れるその結果輸送部隊二つ集団分裂したプロイセン軍一部は、荷車守ろうとした。しかしツィーテン中将指揮下の部隊大部分遮断され来援することができなかった。そして、トロッパウへの撤退強いられている。 およそ250台の荷車ひとまず難を逃れたが、後に再び襲撃受けたその際50台が失われので、オルミュッツ到着したのは200台に過ぎなかった。オーストリアの手落ちた荷車は、合計1,200台に上る残り破壊された。その他、プットカーマー少将650とともに捕虜となっている。

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シエラレオネ内戦」の記事における「戦闘の推移」の解説

1991年3月サンコー率い革命統一戦線RUF)も同胞テーラーNPFL内戦の影響受けてリベリア国境付近シエラレオネ南東部武装蜂起したリベリア国民愛国戦線(NPFT)の支援を受け、リベリアから越境攻撃繰り返したその頃シエラレオネ政権では1992年4月29日バレンタイン・ストラッサー率いる軍の下級将校軍事クーデター起こしモモ政権の座を奪われギニア逃亡した。そしてストラッサーが国家元首になった。ストラッサーの当初の目的国内侵入したリベリアテーラー率いNPFl及びそれに合流したサンコー率いRUF反政府活動鎮圧するであったが、RUFその後虐殺略奪重ねながら広範な領域支配し東部州などを支配下収めた領域内で産出されるダイヤモンド資金源大きな勢力を振い、そしてついに首都フリータウン占領した一時テーラーNPFL支配地域減少するにつれ、RUF勢力衰えてたように見え政情が行詰まり見せたが、1993年にストラッサーはRUFに対して一方的に休戦宣言したため反乱軍側の兵士大赦与えてしまった。その後モモ政権参加していた26人がストラッサーを倒そうとするクーデター未遂事件発覚。ストラッサーはクーデター陰謀容疑でその26人を処刑するが、これが後のクーデター(後述)の前ぶれとなる。 1995年、ストラッサーは奇襲受けて戦力失ったグルカ兵らの後続として、南アフリカ白人政権時代の元兵士らで結成されエグゼクティブ・アウトカムズ(EO)社を雇用EO社の介入RUF側は一時的に壊滅的な打撃受けた1996年1月ジュリアス・ビオ英語版准将による無血クーデター実行され、ストラッサーは政権追われてしまった。翌2月大統領議会選挙が行われ、3月には自由選挙により、アフマド・テジャン・カバー大統領として文民政権就任した。しかしRUFはこの文民政権とも激しく対立した。なお、この頃からカマジョーといった政府側の民兵台頭する1997年5月軍事クーデターカバー大統領から権力奪った軍事革命評議会(AFRC)のジョニー・ポール・コロマ少佐国家元首になり、RUF一時期ではあるが、手を組んだ。この軍事政権ナイジェリアなどを中心とした西アフリカ諸国経済共同体(ECOMOG/ECOWAS)の軍事介入短命に終わったが、復活したカバー文民政権RUF対立はとどまるところを知らなかった1997年にはリベリア武装蜂起していたサンコー同胞テーラーがついにリベリア権力握ったテーラー同胞サンコー支えるため、武器支援引き換えダイヤモンド密輸行った1998年7月には国際連合安全保障理事会決議1181が決議され国際連合平和維持活動国際連合シエラレオネ監視団(UNOMSIL)が設立された。UNOMSILECOMOGともに和平構築にあたることとなった1998年10月サンコー議長死刑判決を受け、これを契機に、RUF全土大攻勢仕掛け最終的に首都を含む全国土の3分の2以上をその支配下収めたその後1999年7月にはロメ和平合意英語版)がなされ、国連監視下での武装解除引き換えに、RUF政権参加認められる事となった。RUF攻勢時はUNOMSIL撤退していたが、1999年10月22日国際連合安全保障理事会決議1270により陣容強化されPKFである国際連合シエラレオネ派遣団 (United Nations Mission in Sierra Leone,UNAMSIL)が設立派遣された。UNAMSILRUFなどの武装動員解除再統合(DDR)を行なうことが任務であったが、これと対立しRUF側は武装解除応じなかった。 2000年5月1日RUFUNAMSIL要員500名を人質とした事件発生5月16日RUFサンコーフリータウン自宅市民により拘束されシエラレオネ警察引き渡され5月19日イギリスフリータウンとは入り江en)で隔てられルンギ国際空港増援部隊派遣したen:British military intervention in the Sierra Leone Civil War, Operation Palliser)。6月インド軍中心とする救出作戦(en:Operation Khukri)が実行され人質救出された。同時期、脱走兵少年少女構成されウェスト・サイド・ボーイズパトロール中のイギリス軍兵士拉致して人質に取るが、イギリス軍による介入によってこちらも救出された(シエラレオネ人質救出作戦)。 政府RUF停戦合意RUF側は政府側の武装解除要求応じカバー政権2002年1月18日武装解除終了宣言3月1日にはついに内戦終結宣言した同年5月カバー大統領再選10年以上行われた紛争終止符打った

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クラヴァンの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説

30日連合軍日が暮れるまで行軍続け、クラヴァンから6キロほど手前フランス軍発見した翌日フランス軍位置自軍より有利と判断した連合軍ヨンヌ川渡り、川の反対側からクラヴァンに近づこうとした。ところが町接近すると、フランス軍前日布陣場所から移動し、川の対岸連合軍待ち構えていることが明らかになった。連合軍フランス軍ヨンヌ川両岸布陣し双方敵前渡河躊躇ったまま3時間近くにらみ合い続けた先にしびれを切らしたスコットランド弓兵射撃始めると、連合軍大砲がこれに応じ弓兵や弩兵も応射した。フランス軍戦列混乱生じ始めたのを見たソールズベリー伯白兵戦決意しイングランド兵は援護射撃を受けながら腰までの水位の幅50メートルほどのヨンヌ川渡り始めた同時に、ウィロビー卿率い別動隊硝煙の中を突いて渡ってスコットランド兵に突撃しフランス軍分断した。フランス軍退却始めたスコットランド兵は後退拒んで踏みとどまって戦い数百になりまで打ち減らされた。およそ3千人橋の周辺堤防上で戦死し指揮官バカン伯ヴァンドーム伯ら2千人捕虜となった戦場から離脱したフランス軍ロワール川まで後退した

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トゥアプセ沖夜戦」の記事における「戦闘の推移」の解説

オスマン帝国海軍 巡洋艦ハミディイェ」(1913年)。 巡洋艦「ミディッリ」。 ロシア帝国海軍 世界大戦中の巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」前檣ロシア語版)には A・G・ポクローフスキイ海軍少将提督旗が翻る巡洋艦カグール」。 世界大戦中の戦列艦「エフスターフィイ」。 束の間夜戦は、そのあらゆる困難さ唐突さの中に発生し、両艦隊巡洋艦砲火を交えた。オスマン帝国の両巡洋艦は別々の方角走り出し、数回発砲したロシア艦隊からは、「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」の砲撃に、稀に戦列艦隊からの斉射付け加えられた。 ポグリャーエフ艦長がのちに報告したところによれば、「パーミャチ・メルクーリヤ」斉射艦橋にいたすべての者の目を完全に眩ませていたため、ポグリャーエフは徒な斉射によってより強力な砲撃力を持つ「エフスターフィイ」を邪魔しないよう、指揮官照準手が確実に巡洋艦艦影認めた場合にのみ射撃を行うよう、砲撃班に命令下した射撃管制は、完全な影にあってまったく話にならなかった。敵艦までの距離の測定ができず、自艦の着弾点を誰も目視確認することができなかった。ポグリャーエフ艦長観測では、艦隊斉射敵艦大きく届いてないようであったオスマン帝国艦は、ときとともに闇に溶け込んでいった。ロシアの両巡洋艦オスマン帝国艦が追っ手撒いて逃げることのないよう戦闘行われた 6 分間のあいだに 2 度わたって急激に舵を切った。しかし、オスマン帝国艦はボスポラス海峡への基本航路に舵を取りながら対峙するロシア艦隊全容見定め、その艦船がより明らかに水平線西側現れてくると、逃走急いだ。両オスマン帝国巡洋艦回頭し、砲撃続けながら暗闇の中へ姿をくらました

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スィノプ沖海戦」の記事における「戦闘の推移」の解説

.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} オスマン帝国海軍 巡洋艦ハミディイェ」(1913年)。 ロシア帝国海軍 世界大戦中の巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」前檣ロシア語版)にはポクローフスキイ海軍少将提督旗が翻る艦隊水雷艇「グネーヴヌイ」(1918年5月)。 艦隊水雷艇「ヂェールスキイ」(1914年8月)。 艦隊水雷艇「ベスポコーイヌイ」(1915年)。 同日正午頃スィノプ西方航行していた「ハミディイェ」(艦長 K・V・ムヒッディン海軍大尉)はロシア帝国斥候艦隊を発見した敵艦隊が圧倒的に優勢であるのを見るや「ハミディイェ」は回頭し、安全なボスポラス海峡のある西へ全速走り出した。これに気付いた「パーミャチ・メルクーリヤ」は、麾下の 4 隻の艦隊水雷艇率いてこれを追撃したとりわけ艦隊水雷艇は「ハミディイェ」の最大航行速度匹敵する 22 kn速度追い駆けたロシア艦隊残り艦船全速力でこれに続いたが、続いて発生した戦闘には参加できなかった。 13時頃、 60程度の距離から「ハミディイェ」と「パーミャチ・メルクーリヤ」互いに砲撃開始したロシア艦隊は、進行方向右舷 45 度方角砲撃行った戦闘中、「ハミディイェ」は「パーミャチ・メルクーリヤ」ならびに艦隊水雷艇からの命中弾を受けた一方、「ヂェールスキイ」にも敵砲弾命中し備砲爆発して士官 1 名が死亡水兵[要リンク修正] 5 名が負傷した。これにより、「ヂェールスキイ」は一時戦線離脱せざるを得なくなった砲火を交えつつ「パーミャチ・メルクーリヤ」は「ハミディイェ」を半ノット上回る速度でこれを追い駆けたが、ついに敵艦捉えることができなかった。16時00分には、艦艇降雨帯入り互いに互い見失った視界悪化加え「パーミャチ・メルクーリヤ」機関[要曖昧さ回避]故障生じて減速結局ロシア艦隊16時頃に追撃中止した。こうして、「ハミディイェ」は完全に不利な状況にも拘らず逃げ切ったのである

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戦闘の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/17 14:41 UTC 版)

クレーフェルトの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説

現在はクレーフェルト市区一つとなっているフォルストヴァルト(英語版一帯平野において、七年戦争中の1758年6月23日にフェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク大将率い連合軍クレルモン伯爵中将指揮下のフランス軍クレーフェルトの町の南端対峙した。フィッシェルン(英語版)に展開していたフランス軍は、すでに47,000をもって防塞ドイツ語版)の、「ヒュッケルスマイ」と名付けられ通路前面布陣しており、ケンペン英語版)とヒュルス(英語版)の中間32,000名を率いて野営していたフェルディナント公が北から来襲することを想定していた。しかしフェルディナント公はフォルスト(ドイツ語版)とアンラート(ドイツ語版)を経由してフランス軍陣地迂回した後、南からの攻撃命じた。公の軍に奇襲される形となったフランス軍東方押され、北の防塞と南の水濠の間に追い込まれるとそこで消耗する。もはや来援が叶わなくなったフランス側予備部隊は、防塞北から迂回して来襲したプロイセン軍英語版)の騎兵隊激戦交えつつ、さらに東へ後退強いられた夕方遅くには趨勢決しフランス軍ひとまずオステラート(ドイツ語版)を経由してノイス撤退した

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戦闘の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/15 14:40 UTC 版)

ヴァールブルクの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説

ムイ伯の軍団民兵大隊義勇部隊を除く)は28大隊31騎兵中隊大砲24合わせて18,000名を数えた。そしてディーメル川の北側にあり、ヴァールブルクからオッセンドルフに続く登り道に展開していた。フランス軍陣地からはデーゼンベルクまで、ダーゼブルク(ドイツ語版)の南西広がる土地全体一望できた。この陣地比較好適であり、縦深の不足から部隊配置転換が困難であったことがただ一つ難点であった陣地南方ではヴァールブルクとゲルメーテ(ドイツ語版)にディーメル川を渡れがあったが、いずれにせよこの時期川の水量は少なかった

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戦闘の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/08 14:00 UTC 版)

ランデスフートの戦い (1760年)」の記事における「戦闘の推移」の解説

この戦い午前2時に夜襲として、二つ高地配したオーストリア軍砲兵によるプロイセン軍へ砲撃とともに始まる。同時にオーストリア軍は、マクセンやホッホキルヒの戦いの時と同じように、様々な方向から攻め寄せた。ほぼ3倍の優勢擁するオーストリア軍は、プロイセン軍次々と後退強いたその際両軍著し損害被っている。フーケ中将オーストリア軍騎兵接近して来るのを見て陣地撤収と、整然とした退却決意する。続く数時間プロイセン側の歩兵全ての銃弾撃ち尽くすまでオーストリア軍攻撃に耐えた。戦い終わり近づくと、プロイセン軍騎兵1,900名は逃げるようにシュヴァイトニッツへ退却したその後歩兵オーストリア軍およびザクセン軍の騎兵に蹴散らされる。この時点で、午前2時の戦闘開始から8時間経過し午前10時になっていた。 プロイセン軍からは8,000名が捕虜になるとともに大砲68門と戦旗34本がオーストリア軍の手落ちた一戦で再び10,000名のプロイセン兵が、後の作戦参加できなくなったのである。しかし今回は、オーストリア軍戦死および負傷により3,000名を失った

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戦闘の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/10 01:04 UTC 版)

マクセンの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説

オーストリア軍は、神聖ローマ帝国軍(英語版)[要曖昧さ回避]の部隊合わせて総勢32,000名の兵力四つ戦列分け同時に攻撃開始した。まず午後2時から砲兵準備砲撃始まり午後3時半からは歩兵攻撃が続く。南方からの主攻勢は、歩兵小規模な四本戦列分かれており、側面から騎兵援護を受けつつプロイセン軍中央向けられていた。プロイセン軍は、ひとまずハウスドルフ後方にある高地へ退かざるを得なかった。しかし、その高地オーストリア軍砲兵隊砲火捉えられた。マクセン前方高地は、プロイセン軍の3個擲弾兵大隊が他の部隊とともに頑強に守っていた一方強制的に徴募されザクセン兵が主体の、第47「グラーボウ」と第38「ツァストロウ」の両歩兵連隊逃亡し等高線沿って攻撃していたオーストリア軍はそれによってプロイセン勢を圧迫することができた。第12オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク竜騎兵連隊によって敢行された、騎兵による反撃頓挫する。次いでオーストリア軍がマクセンに突撃すると、砲撃によって同地陣営炎上し一時的に陥落した。しかし、第4および第16歩兵連隊の兵で構成される「ヴィレミー」擲弾兵大隊がそこを奪還する一方、ほぼ捕虜から召集した兵士編成されていた第11「レーベンティッシュ」歩兵連隊第2大隊は、単純に雲散霧消してしまった。「ヴィレミー」と「ベネッケンドルフ」の両擲弾兵大隊および第12フィンク歩兵連隊後衛として、夕闇が迫るまでマクセンを保持する。しかし、闇の中整えた迎撃態勢は、オーストリア軍圧倒された。夜になってもプロイセン軍部隊部分的に個々攻撃退けることができたものの、戦闘が終わると、かつてはマクセンの周辺集まっていた11歩兵大隊のうち、任務担え兵士は2,825名しか残っていなかったのであるプロイセン軍歩兵半分は、早くも戦闘の間に脱走していた。整然として残っていたのは、ドーナ近辺ヴンシュ少将指揮にあった7個大隊のみである。しかし、主力軍に合流するための敵勢突破もしくは戦闘再開どちらも絶望的であった。ミューグリッツの谷を抜けて撤退できる見込みは、オーストリア軍警戒のため試みることもできなかった。ほとんど戦闘参加していなかったプロイセン軍騎兵は、包囲から抜け出そうしたものの、地面の状態に恵まれないまま総勢1900をもって行われたこの試み失敗し結局フィンク中将降伏するまでに数キロ先まで進めただけであった無傷捕虜11,000から12,000とともにオーストリアの手落ちたのは最終的に大砲70門、戦旗96本そして隊旗24本にのぼる。特にフィンク中将待ち望んだ捕虜の交換は、終戦まで行われなかった。捕われ兵士戦争残りの期間、戦力として計上できなかったのである戦後フィンクプロイセン軍法会議かけられ2年間の要塞禁錮言い渡された。ともに捕われ同様に告訴されたのはヨハン・ヤーコプ・フォン・ヴンシュ赦免)、レオポルト・ヨハン・フォン・プラーテン、ヨハン・カール・フォン・レーベンティッシュ(ドイツ語版)、オットー・エルンスト・フォン・ゲルスドルフ、ヤーコプ・フリードリヒ・フォン・ブレードウ、ハインリヒ・ルドルフ・フォン・バーゾルト、ダニエル・ゲオルゲ・フォン・リントシュテット、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・デア・モーゼル(ドイツ語版)の諸将である。 「ゲルスドルフ」フザール連隊失敗原因として解隊された。またマクセンの戦い参加した全てのプロイセン軍部隊は、後にフリードリヒ大王から不評を買うこととなる。

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戦闘の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/30 07:21 UTC 版)

ダミエッタ沖海戦」の記事における「戦闘の推移」の解説

午後11時を過ぎ、イスラエル海軍ミサイル艇戦隊は二隻縦隊横陣広く散開して並進しており、北側サール4型ミサイル艇の「レシェフ」(INS Reshef)と「ケシェット」(INS Keshet)、中央サール2型ミサイル艇の「エイラート」(INS Eilat)とサール1型ミサイル艇の「ミスゲーブ」(INS Misgav)、南側サール3型ミサイル艇旗艦「ヘレヴ」(INS Herev)と「スーファ」(INS Sufa)が配置されていた。この時点では、サールミサイル艇レーダーオーサ型ミサイル艇探知されていなかったため、イスラエル海軍ミサイル艇隊の方向へ行くのか定かではなかった。 午前0時近くに、ナイル・デルタ沿岸ダミエッタにある目標砲撃するため、「ヘレヴ」と「スーファ」が海岸近く移動したこの際、「ヘレヴ」の電波探知装置西方のバルティム沖の方向反応示したことから、北側の艇が長射程チャフ発射し直後オーサ型ミサイル艇から発射され対艦ミサイル展開したチャフ方向変えたイスラエル海軍ミサイル艇戦隊電子戦装置起動させ、最大戦速にした。 エジプト海軍オーサ型ミサイル艇は4隻が2組分かれてイスラエル海軍ミサイル艇戦隊接近していたが、P-15艦対艦ミサイル最大射程45kmの範囲外だった。午前0時15分過ぎ、オーサ型ミサイル艇から1発のP-15艦対艦ミサイル射程48kmで発射された。2分後、P-15艦対艦ミサイルイスラエル海軍ミサイル艇隊に向けて降下し始めイスラエル海軍艦載機関砲迎撃した。P-15艦対艦ミサイル狙い外れて海面激突したが、接近続けオーサ型ミサイル艇からさらに3発のP-15艦対艦ミサイル発射された。エジプト海軍は、北側サール4型ミサイル艇集中的に攻撃していたが、発射したミサイルはすべて命中しなかった。オーサ型ミサイル艇攻撃後、反航針路から回頭して8の字運動によりアレクサンドリア港へ戻り始めイスラエル海軍追跡継続した25分に及ぶ追跡の後、「ケシェット」がオーサ型ミサイル艇と17kmの距離まで接近しガブリエル艦対艦ミサイル1発を発射ミサイル目標命中したが、「ケシェット」は機関室配管破裂して浸水きたしたミサイル命中したオーサ型ミサイル艇炎上し、「ミスゲーブ」が砲撃して撃沈したまた、「レシェフ」と「エイラート」からも2隻目のオーサ型ミサイル艇ガブリエル艦対艦ミサイル発射され命中の後、2隻からの砲撃撃沈された。残る2隻のオーサ型ミサイル艇は1隻が海岸向かい、もう1隻はアレクサンドリア港へ向かい逃走続けていた。海岸向かった1隻は座礁しガブリエル艦対艦ミサイル命中して停止した後、「ヘレヴ」と「スーファ」からの砲撃大破したアレクサンドリア港へ逃走中の1隻は「レシェフ」が追跡したが、ミサイル射程範囲外となったうえ、ミサイル電気系統不具合発生し主砲射程範囲内まで接近試みたが、アレクサンドリア港に接近過ぎており、エジプト空軍英語版)による航空攻撃曝される危険性もあったため追跡断念して戦隊合流したテレム少将からバルカイ大佐追跡中止命じられ午前1時30分にイスラエル海軍ミサイル艇戦隊北東回頭してハイファ帰投した。

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