戦闘の推移
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乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣した。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた。城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄が小さく、大大名の多い九州の諸侯はこれに従わなかったため、軍としての統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。『常山紀談』には重昌が派遣される際、柳生宗矩が”小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5,000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず討伐は失敗する”と考えて反対したという話がある。 事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱、副将格として戸田氏鉄らの派遣を決定した。功を奪われることを恐れ、焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終わった。この報せに接した幕府は1月10日(2月24日)、増援として水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じる。 新たに着陣した信綱率いる、九州諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲した。大目付・中根正盛は、与力(諜報員)を派遣して反乱軍の動きを詳細に調べさせ、信綱配下の望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。 1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにデ・ライプ号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行った。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また細川忠利ら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。しかし信綱は、ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している。実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。 このオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の援助について、当時オランダとポルトガルは、オランダ・ポルトガル戦争(英語版)(1603〜1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。また、中世研究家の服部英雄は一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。このあとの鎖国でのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している。 討伐軍は密かに使者や矢文を原城内に送り、キリシタンでなく強制的に一揆に参加させられた者は助命する旨を伝えて一揆軍に投降を呼びかけたが、成功しなかった。更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海藻を兵糧の足しにした。松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという。 2月24日(4月8日)、信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行われ、この席で戸田氏鉄は兵糧攻めの継続を、水野勝成は総攻撃を主張するが、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わることもあり、信綱は総攻撃を行うことを決定した。その後、雨天が続き総攻撃は2月28日に延期されるが、鍋島勝茂の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始され、諸大名が続々と攻撃を開始した。兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。『常山紀談』によると、このとき本丸への一番乗りを水野勝成嫡子の水野勝俊と有馬直純嫡子有馬康純が争ったという。 幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった。 全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。天草三氏(天草・志岐・栖本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(栖本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。また、島原及び天草地方の全ての住民が一揆に参加したわけではなく、幕府軍に加わったものも少なくなかった。
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戦闘の推移
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1990年10月1日、RPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発した。 1993年8月4日、ルワンダ愛国戦線の猛攻と国際世論の高まりにより、アルーシャでアルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至った。10月5日、国際連合ルワンダ支援団が設立される。
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戦闘の推移
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7月31日、ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは敵軍が攻撃もしくは別の機動のため、出発の用意を整えているという印象を抱く。それに備えるため、彼は騎兵と砲兵に対し午前1時に出発するべく準備を整えるよう命令した。一方、歩兵部隊は特に命令が下るまで待機することとされた。公は敵軍が、まずトーテンハウゼン付近に展開していたヴァンゲンハイム軍団を攻撃するものと思ったのである。その場合に備え、彼はハーレンとシュテンマーを結ぶ戦線でフランス軍の側面を突こうと計画した。同時に公世子カール・ヴィルヘルム・フェルディナント率いる分遣隊は、フランス軍をパーダーボルンから分断するためにブリサック公指揮下の部隊を攻撃し、ゴーフェルト(ドイツ語版)の橋を占領することになっていた。 コンタード侯は7月31日、ブリサック公の別動隊がビュンデで公世子カールの軍団に遭遇したと聞くと午後6時に軍議を召集し、指揮下の士官に翌日、敵軍を奇襲するつもりであることを通知した。同軍は午後10時に出発できるよう準備を整え、夜間にバスタウ川を渡ることとされた。その後、ハーレンとマルベルゲンの間で陣地を構築する予定であった。当時の戦術の慣行に反し、騎兵隊は両翼ではなくて中央に配置された。なぜならそこの地勢は、その行動により適していると思われたからである。ブロイ公の軍団はヴェーザー川を渡って翌朝、ニコライ師団とともに連合軍のヴァンゲンハイム軍団を攻撃する任務を受けた。続いて、友軍の主力に拘束されているであろう連合軍の主力の側面を突くことになっていたのである。 ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは43個大隊、騎兵61個中隊、総勢40,000名及び重砲107門を率いていた。それに対し、コンタード侯は82個大隊、85騎兵中隊及び大砲86門の合計55,000名を動員することができた。
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戦闘の推移
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「イスラーム教徒のペルシア征服」の記事における「戦闘の推移」の解説
イスラーム教軍は当初アラビア半島に接するメソポタミア地域に侵攻し、サーサーン朝軍と争った。サーサーン朝軍はイスラーム教軍を上回る兵員を動員したが、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮の元イスラーム教軍はワラジャ、フィラーズ、クーファの戦いでサーサーン朝軍に連勝し、633年の4月から634年の1月までの1年足らずの間にメソポタミアのほとんどを支配下に置くこととなった。最終的にカーディシーヤの戦いでイスラーム教徒はサーサーン朝の都クテシフォンまで攻略しペルシア帝国の勢力をメソポタミアから駆逐することに成功した。 第2代正統カリフのウマル・イブン=ハッターブは当初ペルシア高原に兵を進めることには慎重であったが、側近たちはこの機会に完全にペルシア帝国を完全に滅ぼすことを勧めた。ウマルも最終的にペルシア帝国が二度とムスリムの脅威となりえないよう、その息の根を完全に止め、ペルシアをイスラームの領土に加えることを決意した。642年、メソポタミアとペルシア高原を隔てるザグロス山脈を超えて侵攻してきたイスラーム教軍30,000に対し、ヤズデギルド3世は100,000を超える兵力を動員し、現在のハマダーンに程近いニハーヴァンドでこれを迎え撃った(ニハーヴァンドの戦い)。しかし士気や錬度の面で劣っていたサーサーン朝軍はこの戦いでも大惨敗を喫した。ヤズデギルド3世は東方領土に逃亡したが、651年に部下の裏切りで殺された。この戦いを最後に、サーサーン朝は組織だった抵抗を終えた。 廃帝ヤズデギルド3世の息子ペーローズ3世をはじめとする皇族たちはパミール高原を越えて唐に亡命し、唐の援助を受けてササン朝復興を図ったが、ペルシアと唐の地理的な隔絶もあってそれを果たすことはできなかった。
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戦闘の推移
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「露土戦争 (1768年-1774年)」の記事における「戦闘の推移」の解説
1768年に起きたコリーイの乱の反乱軍の一部はオスマン帝国が支配したバルタ町にも攻め入ったため、オスマン帝国はロシア帝国に宣戦し、新たな露土戦争が勃発した。 「en:Battle of Aspindza」および「en:Battle of Nauplia (1770)」も参照 「オルローフの反攻(ロシア語版、ギリシア語版、英語版)」および「チェスマの海戦(ロシア語版、トルコ語版、英語版)」も参照 「en:Battle of Larga」および「en:Battle of Kagul」も参照 「en:Battle of Patras」も参照 ポーランド制圧を終えたアレクサンドル・スヴォーロフはこの方面に派遣され、1773年4月17日、アストラハン歩兵連隊とコサック騎兵連隊の指揮を引き継いだ。スヴォーロフの部隊はサルティコフ中将の第一軍の隷下に置かれ、全軍の右翼についた。1773年6月28日、スヴォーロフはドナウ川近郊に築かれたオスマン軍野営地を奇襲して勝利した。オスマン軍はドナウ川を越えて撤退し、ロシアはルーマニアを制してトルコ侵攻の橋頭堡を築いた。1774年4月、スヴォーロフはバルカン半島に侵攻し、6月20日、コズルドジで8,000名の軍で40,000名のオスマン軍を撃破した(コズルドジの戦い(ロシア語版、英語版)、ケルチ海峡の海戦(ロシア語版、英語版))。これはオスマン帝国にとって決定的な打撃となった。
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戦闘の推移
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トゥーマーンバーイはサラヒア(Salahia)まで進軍することを決意し、そこで砂漠の行軍により憔悴したオスマン軍と遭遇したが、首長らの反対に屈し、カイロ郊外のリダニヤに陣を敷くことにした。オスマン帝国は戦闘をすることなくリダニヤに達し、1月22日に戦闘が始まった。トゥーマーンバーイは自らオスマン軍の歩兵に切り込み、セリム1世の幕営にまで達したが、結局エジプト軍はナイル川の上流へ敗走した。オスマン軍はカイロに侵入し、暴虐の限りが尽くされた。翌日到着した宰相は兵士らの狼藉をやめさせるため、カリフであるムタワッキル3世に慈悲を求める布告を出させたが、狼藉がやむことはなかった。数日後、セリム1世とムタワッキル3世がカイロに入城すると、ようやく略奪はやんだ。 翌日の夜、ベドウィンに加勢されたトゥーマーンバーイが再び現れ、一時オスマン軍をカイロから追い散らした。しかし圧倒的な勢力で再び攻め寄せたオスマン軍を前に、スルタンはナイルを渡ってギザに逃亡し、後に上エジプトに亡命した。 勝利に満足したセリム1世は恩赦を意味する紅白の旗を幕営に掲げさせたが、マムルークは恩赦の対象から外された。マムルークを匿ったものは死罪にすると宣言され、これにより発見された800人が斬首された。
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「ライヒェンバッハの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説
オーストリア軍は8月15日、ズィルバーベルクの周辺に戦力(4,7000名から4,8000名)を結集し、8月16日の午前2時に3個の戦列に分かれ、パイラウに展開するプロイセン軍左翼を攻撃するべく前進を開始する。ラシー大将が率いる右側の戦列はシューンヴァルデ(Schönwalde)からハーベンドルフ(英語版)へ進み、オドネル大将指揮下の中央の戦列はランゲンビーラウ(Langenbielau)へ、そしてラウドン大将指揮下の左の戦列はノイビーラウ(Neubielau)へ向かった。ブレンターノ中将率いる前衛部隊は、激しい戦闘を経てプロイセン軍をランゲンビーラウから駆逐し、同地を占領した。正午頃、オーストリア軍はハーベンドルフとヘアラインベルクを結ぶ線上を移動し、テントを設営し始める。同軍による、さらなる攻撃は翌日以降にずれ込むものと思われた。 しかし午後3時頃、オーストリア軍はテントを畳むと再び移動を開始する。前衛部隊と中央の戦列はパイラウの中央および下流を通過したが、フィッシャーベルクからプロイセン軍の砲兵と歩兵に迎撃を受け、足止めされた。そして両軍の砲兵による砲火の応酬が始まる。同時にラシー大将指揮下のオーストリア軍右翼が、丘陵地帯に隠れつつパイラウ上流から前進した。またベック大将率いる強力な部隊が、察知されることなくプロイセン軍を迂回し、フィッシャーベルクを側面および後背から襲撃する。 ベーヴェルン公はペータースヴァルダウから来援する大王を待っていたので、その場を防衛していた。そしてベック指揮下のオーストリア軍を、ひとまずショーバーグルント(Schobergrund)の湿地帯で足止めすることができた。ハーベンスドルフの高地から戦いの推移を見ていたダウン元帥は、午後5時半にラシー大将へ、フィッシャーベルクに対する攻撃の中止と撤退を命じた。ライヒェンバッハに向かう、強力なプロイセン軍部隊の存在を報告されたからである。このようにして、ベーヴェルン公とその部隊は完全に迂回されずに済んだ。 午後6時にはヴェルナー中将が、ライヒェンバッハを右側に臨みつつ、有力な騎兵部隊および騎馬砲兵の全て(大砲16門)をもって前進し、状況に介入した。またメレンドルフ少将指揮下の9個大隊も、それに続く。攻撃の目標となったのは、パイラウの中央および下流から襲来するオーストリア軍である。これら騎兵部隊の行動は、砲兵の援護を受けていた。 オーストリア側による自軍左翼への増援は、もはや間に合わなかった。オーストリア騎兵はプロイセン騎兵によって「一気に制圧」され、パイレ川(Peile)に追い落とされたので、ブレンターノ中将は指揮下の左翼部隊の撤収を強いられた。その後、ダウン元帥はラシー大将とブレンターノ中将に戦闘の中断と、ハーベンドルフの陣への帰還を命じる。ベック大将も再び退かねばならなかった。ヴェルナー中将の迅速な前進が、プロイセン軍に勝利をもたらしたのである。
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「ドームシュタットルの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説
輸送部隊は6月26日、トロッパウを出発した。この部隊には、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・デア・モーゼル(ドイツ語版)大佐率いる有力な護衛が付いていた。翌日、彼は隊列を再び集結させるべく停止しなくてはいけなかった。この日、ラウドン少将はシュテルンベルク(英語版)に到着し、輸送部隊とフリードリヒ2世との連絡が絶たれるほど上手くその一帯に布陣する。ラウドン少将は、これを受けてフリードリヒ2世がオルミュッツから優勢な軍団を支援のため派遣するだろうと予測せざるを得ず、6月28日にグンダースドルフ(ドイツ語版)へ進軍し、そこで高地を占領した。そして輸送部隊が近づいて来ると、まだ劣勢であったにも拘らず攻撃を決意する。プロイセン軍は防戦をもってこれに応じ、大砲を使用するためいくつかの丘陵を占領した。損害の大きかったこの戦いは、5時間ほど続く。その際、オーストリア軍のフザールは100台の荷車を破壊した。ラウドンは、ツィーテン中将から背後を突かれる恐れがあったので兵を退いた。 この襲撃は、特に御者の間に著しい混乱を巻き起こした。ツィーテン中将は指揮下の部隊とともに輸送部隊と合流しても、秩序の回復に丸一日をかけねばならなかったのである。この遅れによってズィスコヴィッツ少将はアルトリーベとドームシュタットルの中間に到達し、ラウドン少将とその後の策を協議することができた。6月30日、護送部隊は移動を開始する。そして一時的に、40キロメートルほどの隊列に伸びる。騎兵隊は右側から、歩兵隊は左側からこれを護衛していた。 藪に隠れたオーストリア軍は、前衛と100台ほどの荷車をやり過ごす。その後、ズィスコヴィッツ少将は荷車を左側から襲撃した。砲弾が先頭の荷車の馬を殺傷したので、輸送部隊の全体が停止に追い込まれる。ツィーテン中将は荷車で円陣を組ませた。そこで歩兵3個大隊と大砲6門が守備に就く。そして兵の一部を率い、オーストリア軍に攻めかかるといくつかの部隊を撃退した。しかしオーストリアのフザールによって、再び荷車城塞の中へ押し戻される。今やラウドン少将も、右側から攻め寄せていた。彼は弾薬を積んだ荷車をいくつも爆破し、輸送部隊の全体を大混乱に陥れる。その結果、輸送部隊は二つの集団に分裂した。プロイセン軍の一部は、荷車を守ろうとした。しかしツィーテン中将と指揮下の部隊の大部分は遮断され、来援することができなかった。そして、トロッパウへの撤退を強いられている。 およそ250台の荷車がひとまず難を逃れたが、後に再び襲撃を受けた。その際に50台が失われので、オルミュッツに到着したのは200台に過ぎなかった。オーストリア側の手に落ちた荷車は、合計1,200台に上る。残りは破壊された。その他、プットカーマー少将が650名とともに捕虜となっている。
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戦闘の推移
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1991年3月、サンコー率いる革命統一戦線(RUF)も同胞のテーラーのNPFLの内戦の影響を受けて、リベリア国境付近のシエラレオネ南東部で武装蜂起した。リベリア国民愛国戦線(NPFT)の支援を受け、リベリアから越境攻撃を繰り返した。 その頃、シエラレオネの政権では1992年4月29日、バレンタイン・ストラッサー率いる軍の下級将校が軍事クーデターを起こし、モモは政権の座を奪われギニアに逃亡した。そしてストラッサーが国家元首になった。ストラッサーの当初の目的は国内に侵入したリベリアのテーラー率いるNPFl及びそれに合流したサンコー率いるRUFの反政府活動を鎮圧する事であったが、RUFはその後、虐殺や略奪を重ねながら広範な領域を支配し、東部州などを支配下に収めた。 領域内で産出されるダイヤモンドを資金源に大きな勢力を振い、そしてついに首都フリータウンを占領した。一時、テーラーのNPFLの支配地域が減少するにつれ、RUFの勢力が衰えていたように見え、政情が行き詰まりを見せたが、1993年にストラッサーはRUFに対して一方的に休戦を宣言したため反乱軍側の兵士に大赦を与えてしまった。その後、モモ政権に参加していた26人がストラッサーを倒そうとするクーデター未遂事件が発覚。ストラッサーはクーデター陰謀の容疑でその26人を処刑するが、これが後のクーデター(後述)の前ぶれとなる。 1995年、ストラッサーは奇襲を受けて戦力を失ったグルカ兵らの後続として、南アフリカ白人政権時代の元兵士らで結成されたエグゼクティブ・アウトカムズ(EO)社を雇用。EO社の介入でRUF側は一時的に壊滅的な打撃を受けた。 1996年1月、ジュリアス・ビオ(英語版)准将による無血クーデターが実行され、ストラッサーは政権を追われてしまった。翌2月に大統領・議会選挙が行われ、3月には自由選挙により、アフマド・テジャン・カバーが大統領として文民政権に就任した。しかしRUFはこの文民政権とも激しく対立した。なお、この頃からカマジョーといった政府側の民兵が台頭する。 1997年5月に軍事クーデターでカバー大統領から権力を奪った軍事革命評議会(AFRC)のジョニー・ポール・コロマ少佐が国家元首になり、RUFと一時期ではあるが、手を組んだ。この軍事政権はナイジェリアなどを中心とした西アフリカ諸国経済共同体(ECOMOG/ECOWAS)の軍事介入で短命に終わったが、復活したカバー文民政権とRUFの対立はとどまるところを知らなかった。 1997年にはリベリアで武装蜂起していたサンコーの同胞、テーラーがついにリベリアの権力を握った。テーラーは同胞のサンコーを支えるため、武器支援と引き換えにダイヤモンド密輸を行った。 1998年7月には国際連合安全保障理事会決議1181が決議され、国際連合平和維持活動の国際連合シエラレオネ監視団(UNOMSIL)が設立された。UNOMSILはECOMOGともに和平構築にあたることとなった。1998年10月、サンコー議長の死刑判決を受け、これを契機に、RUFが全土で大攻勢を仕掛け、最終的には首都を含む全国土の3分の2以上をその支配下に収めた。その後、1999年7月にはロメ和平合意(英語版)がなされ、国連監視下での武装解除と引き換えに、RUFの政権参加が認められる事となった。RUFの攻勢時はUNOMSILは撤退していたが、1999年10月22日の国際連合安全保障理事会決議1270により陣容が強化されたPKFである国際連合シエラレオネ派遣団 (United Nations Mission in Sierra Leone,UNAMSIL)が設立・派遣された。UNAMSILはRUFなどの武装・動員解除、再統合(DDR)を行なうことが任務であったが、これと対立し、RUF側は武装解除に応じなかった。 2000年5月1日にRUFがUNAMSILの要員約500名を人質とした事件が発生。5月16日、RUFのサンコーがフリータウンの自宅で市民により拘束されシエラレオネ警察に引き渡され、5月19日にイギリスはフリータウンとは入り江(en)で隔てられたルンギ国際空港へ増援部隊を派遣した(en:British military intervention in the Sierra Leone Civil War, Operation Palliser)。6月、インド軍を中心とする救出作戦(en:Operation Khukri)が実行され、人質は救出された。同時期、脱走兵と少年少女で構成されたウェスト・サイド・ボーイズがパトロール中のイギリス軍兵士を拉致して人質に取るが、イギリス軍による介入によってこちらも救出された(シエラレオネ人質救出作戦)。 政府はRUFと停戦に合意。RUF側は政府側の武装解除の要求に応じ、カバー政権は2002年1月18日に武装解除の終了を宣言。3月1日にはついに内戦終結を宣言した。同年の5月にカバー大統領が再選。10年以上行われた紛争は終止符を打った。
※この「戦闘の推移」の解説は、「シエラレオネ内戦」の解説の一部です。
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戦闘の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/30 09:18 UTC 版)
翌30日、連合軍は日が暮れるまで行軍を続け、クラヴァンから6キロほど手前でフランス軍を発見した。翌日、フランス軍の位置が自軍より有利と判断した連合軍はヨンヌ川を渡り、川の反対側からクラヴァンに近づこうとした。ところが町に接近すると、フランス軍が前日の布陣場所から移動し、川の対岸で連合軍を待ち構えていることが明らかになった。連合軍とフランス軍はヨンヌ川の両岸に布陣し、双方が敵前渡河を躊躇ったまま3時間近くにらみ合いを続けた。 先にしびれを切らしたスコットランド弓兵が射撃を始めると、連合軍の大砲がこれに応じ、弓兵や弩兵も応射した。フランス軍の戦列に混乱が生じ始めたのを見たソールズベリー伯は白兵戦を決意し、イングランド兵は援護射撃を受けながら腰までの水位の幅50メートルほどのヨンヌ川を渡り始めた。同時に、ウィロビー卿率いる別動隊が硝煙の中を突いて橋を渡ってスコットランド兵に突撃し、フランス軍を分断した。フランス軍は退却を始めたがスコットランド兵は後退を拒んで踏みとどまって戦い、数百になりまで打ち減らされた。およそ3千人が橋の周辺や堤防上で戦死し、指揮官のバカン伯やヴァンドーム伯ら2千人が捕虜となった。戦場から離脱したフランス軍はロワール川まで後退した。
※この「戦闘の推移」の解説は、「クラヴァンの戦い」の解説の一部です。
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戦闘の推移
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オスマン帝国海軍 巡洋艦「ハミディイェ」(1913年)。 巡洋艦「ミディッリ」。 ロシア帝国海軍 世界大戦中の巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」。前檣(ロシア語版)には A・G・ポクローフスキイ海軍少将の提督旗が翻る。 巡洋艦「カグール」。 世界大戦中の戦列艦「エフスターフィイ」。 束の間の夜戦は、そのあらゆる困難さと唐突さの中に発生し、両艦隊の巡洋艦が砲火を交えた。オスマン帝国の両巡洋艦は別々の方角へ走り出し、数回発砲した。ロシア艦隊からは、「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」の砲撃に、稀に戦列艦隊からの斉射が付け加えられた。 ポグリャーエフ艦長がのちに報告したところによれば、「パーミャチ・メルクーリヤ」の斉射が艦橋にいたすべての者の目を完全に眩ませていたため、ポグリャーエフは徒な斉射によってより強力な砲撃力を持つ「エフスターフィイ」を邪魔しないよう、指揮官と照準手が確実に敵巡洋艦の艦影を認めた場合にのみ射撃を行うよう、砲撃班に命令を下した。射撃管制は、完全な影にあってまったく話にならなかった。敵艦までの距離の測定ができず、自艦の着弾点を誰も目視確認することができなかった。ポグリャーエフ艦長の観測では、艦隊の斉射は敵艦に大きく届いていないようであった。 オスマン帝国艦は、ときとともに闇に溶け込んでいった。ロシアの両巡洋艦はオスマン帝国艦が追っ手を撒いて逃げることのないよう、戦闘の行われた 6 分間のあいだに 2 度にわたって急激に舵を切った。しかし、オスマン帝国艦はボスポラス海峡への基本航路に舵を取りながら対峙するロシア艦隊の全容を見定め、その艦船がより明らかに水平線の西側に現れてくると、逃走を急いだ。両オスマン帝国巡洋艦は回頭し、砲撃を続けながら暗闇の中へ姿をくらました。
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戦闘の推移
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戦闘の推移
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「クレーフェルトの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説
現在はクレーフェルトの市区の一つとなっているフォルストヴァルト(英語版)一帯の平野において、七年戦争中の1758年6月23日にフェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク大将率いる連合軍とクレルモン伯爵中将指揮下のフランス軍がクレーフェルトの町の南端で対峙した。フィッシェルン(英語版)に展開していたフランス軍は、すでに47,000名をもって防塞(ドイツ語版)の、「ヒュッケルスマイ」と名付けられた通路の前面に布陣しており、ケンペン(英語版)とヒュルス(英語版)の中間に32,000名を率いて野営していたフェルディナント公が北から来襲することを想定していた。しかしフェルディナント公はフォルスト(ドイツ語版)とアンラート(ドイツ語版)を経由してフランス軍の陣地を迂回した後、南からの攻撃を命じた。公の軍に奇襲される形となったフランス軍は東方へ押され、北の防塞と南の水濠の間に追い込まれるとそこで消耗する。もはや来援が叶わなくなったフランス側の予備部隊は、防塞を北から迂回して来襲したプロイセン軍(英語版)の騎兵隊と激戦を交えつつ、さらに東への後退を強いられた。夕方遅くには趨勢が決し、フランス軍はひとまずオステラート(ドイツ語版)を経由してノイスに撤退した。
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戦闘の推移
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「ヴァールブルクの戦い」の記事における「戦闘の推移」の解説
ムイ伯の軍団(民兵大隊と義勇部隊を除く)は28個大隊、31個騎兵中隊、大砲24門合わせて18,000名を数えた。そしてディーメル川の北側にあり、ヴァールブルクからオッセンドルフに続く登り道に展開していた。フランス軍の陣地からはデーゼンベルクまで、ダーゼブルク(ドイツ語版)の南西に広がる土地の全体を一望できた。この陣地は比較的好適であり、縦深の不足から部隊の配置転換が困難であったことがただ一つの難点であった。陣地の南方ではヴァールブルクとゲルメーテ(ドイツ語版)にディーメル川を渡れる橋があったが、いずれにせよこの時期、川の水量は少なかった。
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「ランデスフートの戦い (1760年)」の記事における「戦闘の推移」の解説
この戦いは午前2時に夜襲として、二つの高地に配したオーストリア軍の砲兵によるプロイセン軍への砲撃とともに始まる。同時にオーストリア軍は、マクセンやホッホキルヒの戦いの時と同じように、様々な方向から攻め寄せた。ほぼ3倍の優勢を擁するオーストリア軍は、プロイセン軍に次々と後退を強いた。その際、両軍は著しい損害を被っている。フーケ中将はオーストリア軍の騎兵が接近して来るのを見て、陣地の撤収と、整然とした退却を決意する。続く数時間、プロイセン側の歩兵は全ての銃弾を撃ち尽くすまでオーストリア軍の攻撃に耐えた。戦いが終わりに近づくと、プロイセン軍の騎兵1,900名は逃げるようにシュヴァイトニッツへ退却した。その後、歩兵はオーストリア軍およびザクセン軍の騎兵に蹴散らされる。この時点で、午前2時の戦闘開始から8時間が経過し、午前10時になっていた。 プロイセン軍からは8,000名が捕虜になるとともに、大砲68門と戦旗34本がオーストリア軍の手に落ちた。一戦で再び10,000名のプロイセン兵が、後の作戦に参加できなくなったのである。しかし今回は、オーストリア軍も戦死および負傷により3,000名を失った。
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戦闘の推移
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オーストリア軍は、神聖ローマ帝国軍(英語版)[要曖昧さ回避]の部隊と合わせて総勢32,000名の兵力を四つの戦列に分け、同時に攻撃を開始した。まず午後2時から砲兵の準備砲撃が始まり、午後3時半からは歩兵の攻撃が続く。南方からの主攻勢は、歩兵の小規模な四本の戦列に分かれており、側面から騎兵の援護を受けつつプロイセン軍の中央に向けられていた。プロイセン軍は、ひとまずハウスドルフの後方にある高地へ退かざるを得なかった。しかし、その高地もオーストリア軍砲兵隊の砲火に捉えられた。マクセン前方の高地は、プロイセン軍の3個擲弾兵大隊が他の部隊とともに頑強に守っていた一方、強制的に徴募されたザクセン兵が主体の、第47「グラーボウ」と第38「ツァストロウ」の両歩兵連隊は逃亡し、等高線に沿って攻撃していたオーストリア軍はそれによってプロイセン勢を圧迫することができた。第12「オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク」竜騎兵連隊によって敢行された、騎兵による反撃も頓挫する。次いでオーストリア軍がマクセンに突撃すると、砲撃によって同地の陣営は炎上し、一時的に陥落した。しかし、第4および第16歩兵連隊の兵で構成される「ヴィレミー」擲弾兵大隊がそこを奪還する。一方、ほぼ捕虜から召集した兵士で編成されていた第11「レーベンティッシュ」歩兵連隊の第2大隊は、単純に雲散霧消してしまった。「ヴィレミー」と「ベネッケンドルフ」の両擲弾兵大隊および第12「フィンク」歩兵連隊は後衛として、夕闇が迫るまでマクセンを保持する。しかし、闇の中で整えた迎撃態勢は、オーストリア軍に圧倒された。夜になってもプロイセン軍の部隊は部分的に個々の攻撃を退けることができたものの、戦闘が終わると、かつてはマクセンの周辺に集まっていた11の歩兵大隊のうち、任務を担える兵士は2,825名しか残っていなかったのである。プロイセン軍歩兵の半分は、早くも戦闘の間に脱走していた。整然として残っていたのは、ドーナの近辺でヴンシュ少将の指揮下にあった7個大隊のみである。しかし、主力軍に合流するための敵勢の突破、もしくは戦闘再開のどちらも絶望的であった。ミューグリッツの谷を抜けて撤退できる見込みは、オーストリア軍の警戒のため試みることもできなかった。ほとんど戦闘に参加していなかったプロイセン軍の騎兵は、包囲から抜け出そうとしたものの、地面の状態に恵まれないまま総勢1900名をもって行われたこの試みは失敗し、結局フィンク中将が降伏するまでに数キロ先まで進めただけであった。 無傷の捕虜11,000から12,000名とともに、オーストリア側の手に落ちたのは最終的に大砲70門、戦旗96本そして隊旗24本にのぼる。特にフィンク中将が待ち望んだ捕虜の交換は、終戦まで行われなかった。捕われた兵士は戦争の残りの期間、戦力として計上できなかったのである。 戦後、フィンクはプロイセンで軍法会議にかけられ、2年間の要塞禁錮を言い渡された。ともに捕われ、同様に告訴されたのはヨハン・ヤーコプ・フォン・ヴンシュ(赦免)、レオポルト・ヨハン・フォン・プラーテン、ヨハン・カール・フォン・レーベンティッシュ(ドイツ語版)、オットー・エルンスト・フォン・ゲルスドルフ、ヤーコプ・フリードリヒ・フォン・ブレードウ、ハインリヒ・ルドルフ・フォン・バーゾルト、ダニエル・ゲオルゲ・フォン・リントシュテット、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・デア・モーゼル(ドイツ語版)の諸将である。 「ゲルスドルフ」フザール連隊は失敗を原因として解隊された。またマクセンの戦いに参加した全てのプロイセン軍部隊は、後にフリードリヒ大王から不評を買うこととなる。
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戦闘の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/30 07:21 UTC 版)
午後11時を過ぎ、イスラエル海軍ミサイル艇戦隊は二隻縦隊の横陣で広く散開して並進しており、北側にサール4型ミサイル艇の「レシェフ」(INS Reshef)と「ケシェット」(INS Keshet)、中央にサール2型ミサイル艇の「エイラート」(INS Eilat)とサール1型ミサイル艇の「ミスゲーブ」(INS Misgav)、南側にサール3型ミサイル艇の旗艦「ヘレヴ」(INS Herev)と「スーファ」(INS Sufa)が配置されていた。この時点では、サール型ミサイル艇のレーダーにオーサ型ミサイル艇は探知されていなかったため、イスラエル海軍ミサイル艇隊の方向へ行くのか定かではなかった。 午前0時近くに、ナイル・デルタ沿岸のダミエッタにある目標を砲撃するため、「ヘレヴ」と「スーファ」が海岸近くへ移動した。この際、「ヘレヴ」の電波探知装置が西方のバルティム沖の方向に反応を示したことから、北側の艇が長射程チャフを発射し、直後にオーサ型ミサイル艇から発射された対艦ミサイルが展開したチャフへ方向を変えた。イスラエル海軍ミサイル艇戦隊は電子戦装置を起動させ、最大戦速にした。 エジプト海軍のオーサ型ミサイル艇は4隻が2組に分かれてイスラエル海軍ミサイル艇戦隊に接近していたが、P-15艦対艦ミサイルの最大射程45kmの範囲外だった。午前0時15分過ぎ、オーサ型ミサイル艇から1発のP-15艦対艦ミサイルが射程48kmで発射された。2分後、P-15艦対艦ミサイルはイスラエル海軍ミサイル艇隊に向けて降下し始め、イスラエル海軍は艦載の機関砲で迎撃した。P-15艦対艦ミサイルは狙いが外れて海面に激突したが、接近を続けるオーサ型ミサイル艇からさらに3発のP-15艦対艦ミサイルが発射された。エジプト海軍は、北側のサール4型ミサイル艇を集中的に攻撃していたが、発射したミサイルはすべて命中しなかった。オーサ型ミサイル艇は攻撃後、反航針路から回頭して8の字運動によりアレクサンドリア港へ戻り始め、イスラエル海軍は追跡を継続した。25分に及ぶ追跡の後、「ケシェット」がオーサ型ミサイル艇と17kmの距離まで接近し、ガブリエル艦対艦ミサイル1発を発射、ミサイルは目標に命中したが、「ケシェット」は機関室の配管が破裂して浸水をきたした。ミサイルが命中したオーサ型ミサイル艇は炎上し、「ミスゲーブ」が砲撃して撃沈した。また、「レシェフ」と「エイラート」からも2隻目のオーサ型ミサイル艇へガブリエル艦対艦ミサイルが発射され、命中の後、2隻からの砲撃で撃沈された。残る2隻のオーサ型ミサイル艇は1隻が海岸へ向かい、もう1隻はアレクサンドリア港へ向かい逃走を続けていた。海岸へ向かった1隻は座礁し、ガブリエル艦対艦ミサイルが命中して停止した後、「ヘレヴ」と「スーファ」からの砲撃で大破した。アレクサンドリア港へ逃走中の1隻は「レシェフ」が追跡したが、ミサイルの射程範囲外となったうえ、ミサイルの電気系統に不具合が発生し、主砲の射程範囲内まで接近を試みたが、アレクサンドリア港に接近過ぎており、エジプト空軍(英語版)による航空攻撃に曝される危険性もあったため追跡を断念して戦隊に合流した。 テレム少将からバルカイ大佐に追跡中止が命じられ、午前1時30分にイスラエル海軍ミサイル艇戦隊は北東へ回頭してハイファに帰投した。
※この「戦闘の推移」の解説は、「ダミエッタ沖海戦」の解説の一部です。
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