乱の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:47 UTC 版)
乱の発生は宝亀11年3月22日(780年5月1日)である。陸奥按察使であった紀広純は、覚鱉城造営のため、俘軍を率い、陸奥介大伴宿禰真綱、牡鹿郡大領道嶋大楯、そして反乱の首謀者となる上治郡大領伊治呰麻呂を従えて、伊治城に入った。これを機会に呰麻呂は自ら内応して俘軍を誘い、反乱に至ったものである。呰麻呂はまず道嶋大楯を殺すと、ついで衆を率いて紀広純を囲み、攻めてこれも弑した。大伴真綱に対しては囲みを開いて多賀城まで護送した。これは真綱に多賀城の明け渡しを求めてのこととみられる。城下の住民が多賀城の中に競うようにして入り保護を求めたが、真綱は陸奥掾の石川浄足(いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民も散り散りになって逃れた。数日後には反乱軍が多賀城まで来襲し、府庫の物資を略奪した上、城に火を放って焼き払ったという。この時伊治城・多賀城ともに大規模な火災により焼失したことは、発掘調査によっても裏付けられている。
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