乱の結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 10:13 UTC 版)
この一揆にかかわったということで、国兼の黒幕とされた島津歳久が詰め腹を切り、一揆に家臣が参加したという理由で、阿蘇宮司で当時十三歳の阿蘇惟光が熊本花岡山で斬首され、密謀の同盟者とされる佐賀の江上家種は、意外な変死を遂げるなど、どれも悲惨な決着をつけられている。 これ以上に哀れだったのは、梅北国兼の家族である。国兼は、このとき湯之尾の地頭だったが、身辺の重臣たちは、山田地頭時代の家来が多かったようで、一揆失敗の知らせは、姶良町史によれば、「国許(山田郷)の北山にも知らせの使者が七人出た。この人々は、やっと北山にたどり着き、国兼の奥方に密議の不成功と国兼の死を告げ、後は従容として『七ツ島』で切腹し、国兼に殉死したのである。」と記している。幸い子供たちは、追悼の目を逃れ、散りぢりになって生き長らえたという。だが、国兼の妻は捕らえられて名護屋城へ連行され、秀吉に仕えるよう強要されたがそれを拒み、衆人環視の中で、生きたまま火あぶりの刑に処せられている。 国兼の妻は死に及んでも取り乱さなかった。宣教師のルイス・フロイスは「日本史2」第三一章に以下のように書き残している。 「彼女は不思議なばかりの勇気をもって、当初から目を開き地面を見つめ、身動きもせず悲鳴や嘆声をあげることもなく、そのまま焼かれ、灰と炭骨と化するまで不動の姿勢を保っていた」
※この「乱の結果」の解説は、「梅北氏」の解説の一部です。
「乱の結果」を含む「梅北氏」の記事については、「梅北氏」の概要を参照ください。
- 乱の結果のページへのリンク