阿蘇惟光とは? わかりやすく解説

阿蘇惟光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/18 13:42 UTC 版)

 
阿蘇 惟光
時代 安土桃山時代
生誕 天正10年(1582年
死没 文禄2年8月18日1593年9月13日
別名 長松丸
墓所 阿弥陀寺(熊本市)
氏族 阿蘇氏
父母 父:阿蘇惟種
兄弟 惟光、惟善
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阿蘇 惟光(あそ これみつ)は、安土桃山時代肥後国大名阿蘇神社宮司

生涯

天正10年(1582年)、阿蘇惟種の嫡男として誕生。

天正12年(1584年)、父・惟種の死により、幼年ながら2歳で当主となった。

天正13年(1585年)7月3日、甲斐宗運が死去。薩摩国島津氏の侵攻を受けて、8月12日、花山城陥落。8月末、堅志田城、木山城陥落。阿蘇家において初めて降伏し、八代荘厳寺の僧侶を島津氏に派遣。しかし、島津氏は和睦を拒否。同年9月に甲斐宗運の家臣が次々と処刑される。母親に連れられて弟・惟善と共に目丸山に逃亡した(目丸落ち)。豊臣秀吉による九州平定が始まると保護を求めた。惟光は佐々成政に預けられた。

天正15年(1587年)6月25日、豊臣秀吉により、わずかながら肥後国矢部三百町が与えられる(『九州治乱記』)。

同年7月、肥後国人一揆が勃発すると、秀吉が惟光の処刑を求める。だが、このとき惟光は熊本城内にいたので、関与していないことは明白とされ、不問とされた(『小早川秀明文書:十二月十七日』)。一揆の責任を問われた佐々成政が処刑されてしまい、惟光は加藤清正に預けられることになった。このとき惟光は6歳であった。

文禄元年(1593年)6月に梅北一揆が起こると、島津歳久梅北国兼らとの結託を疑われ、秀吉によって切腹を命じられる。

同年、8月18日、惟光は花岡山で切腹した[1]。享年12。これは加藤清正の朝鮮出兵中の留守を狙ったものであった。

後に惟光の弟・阿蘇惟善が、加藤清正に召し出され大宮司職に復帰した。

脚注

  1. ^ 熊本県公式観光サイト「もっと、もーっと!くまもっと」ふるさと寺子屋No.148「花岡山を学ぶ」

出典

  • 熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』、1982年、18頁
  • 阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社、2007年

関連項目

  • 花の慶次 - 作品内に登場するキャラクター・水沢隆広のモデルとなった




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