梅北国兼(うめきた くにかね) ????~1592
梅北国兼
梅北国兼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 10:13 UTC 版)
国兼は、宮内左衛門尉(くないざえもんのじょう)を称し、島津氏の有力家臣であった。 梅北兼弘の子として誕生した国兼は、天文23年(1554年)の岩剣城の戦いに始まり、弘治3年(1557年)の蒲生城陥落まで島津氏と薩摩蒲生氏の間で繰り広げられた合戦において目覚ましい功績を示し、大隅帖佐郷山田(現:鹿児島県姶良市)の地頭に任じられた。帖佐郷山田時代には北山地区の黒島神社の鎮座する玉城山(為朝城)を居城とした。 島津氏の北征では水軍を担当し、天正13年(1585年)の大友氏攻撃に際しては「御舟攻」を進言し、実際に天正6年(1548年)及び天正14年(1586年)の豊薩合戦で武功を上げている。 天正8年(1580年)に薩摩国菱刈郡湯之尾(現:鹿児島県伊佐市)の地頭(湯之尾城主)となった。
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