秀吉の一門衆
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幼少より豊臣秀吉に仕える。一門衆の1人として厚遇され、家老蜂須賀正勝の死後、その所領であった播磨国龍野城を、福島正則の次に代わって与えられた。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。 天正18年(1590年)、小田原征伐に参陣する。文禄の役では1,500名を率いて在陣衆の1人として名護屋城に滞在した。文禄3年(ないし2年)に若狭国後瀬山城8万1500石を与えられた。20歳代前半にあたる1590年代初め頃の時期から和歌に才能を発揮し、文禄の役の際に肥前国の陣中へ向かう旅路で記された文章や和歌は『九州道之記』として遺されている。 慶長5年(1600年)、会津征伐に赴く五大老筆頭徳川家康の命で、勝俊は特に伏見城に留め置かれ、松の丸の守備を任された。しかし関ヶ原の戦いが始まると、東軍の鳥居元忠は信頼できる三河衆を中心に城の守りを固めようと考え、寄せ手の西軍に弟の秀秋が含まれていると勝俊に疑いをかけて、退去しなければ攻め寄せると迫った。このために勝俊は退去して北政所のいる京都に向かった。 勝俊が伏見城を退去した理由については諸説あるが、血はつながらないとは言え、従兄弟にあたる豊臣秀頼のためにも関東に味方するべきではないが、かといって石田三成の謀叛に荷担することもできず、城に残ると防戦の邪魔になると判断したためであるという。その他の異説としては、風情を好む勝俊が太閤の築いた金吹の瓦の豪華絢爛な城が兵火に見舞われるの見るのが忍びなくなって、全てが疎ましくなって城を出て行ったとするものや、彼の歌道の師匠であった細川幽斎同様(田辺城の戦い)に、天皇をはじめとした朝廷による救出工作があって里村昌叱が勝俊を迎え入れたとする説がある。一方で、勝俊を可愛がっていた北政所が西軍を支持していたためとする説もあるが、通説では北政所は反石田・淀殿の側であり、まず東軍・勝俊と西軍・小早川秀秋が兄弟であることを理由に仲裁して停戦させようとし、それが勝俊の退去で失敗した後は秀秋に伏見城へ入城させて東軍に加勢させようとしたことが知られる。いずれにしてもこれらの理由ならば、結局、勝俊は独断で城を出たことになる。 妻のうめ(宝泉院)は大坂で人質となっていたが、勝俊の敵前逃亡を知って激怒し、これを理由に後に離縁した。戦後、元忠に追い出されたとはいえ、勝俊が与えられた任務を勝手に放棄した行為は許し難きことであったので、家康は伏見城退去を理由に勝俊を除封の処分とした。 慶長13年(1608年)、父・家定の死去後、高台院(北政所)の周旋によって遺領(備中国足守2万5,000石)は安堵され、その裁量に任されることになった。この際、家康は遺領を勝俊と利房に分賜するとも定めていたが、高台院は寵愛する勝俊に遺領の全てを渡した。すると、所領を得られなくなった弟・利房は抗議して家康に泣きつき、約半年間、双方の使者が京都と駿河を往復して争議となった。翌年9月、江戸幕府は分地の沙汰を犯して命に背いたという理由で、家定の遺領の全てを没収とした。これで再び勝俊は失領したが、利房も同じであり、代わりに遠縁にあたる浅野長晟が、足守藩を一時拝領して管理した。なお、利房は、大坂の陣で徳川方として参戦して軍功を挙げ、それによって晴れて父の遺領である足守藩の継承を認められている。
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秀吉の一門衆
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天正4年(1576年)、近江国滋賀郡坂本で浅野長政(長吉)の長男として生まれる。童名を長満(ちょうみつ)。初名を長慶(ながよし)といった。 父・長政は安井重継と長勝の姉との間に生まれた子で、跡継ぎが夭折した長勝の養子となった。母・やや(長生院)の出生には2説あり、豊臣秀吉の正室・ねね(高台院 / 北政所)の実妹で叔母・七曲殿(長勝の後妻)の養女になったとも、長勝と樋口美濃守の娘(長勝の最初の妻)との間にできた実子とも言う。ねねも長勝の養女であったことから、長政とは義兄妹の関係であり、何れにしても、幸長は甥にあたる。 天正17年(1589年)4月、従五位下・左京大夫に叙任される。 天正18年(1590年)、小田原の役で父に付き従って出陣。これが初陣であり、当時15歳であった。5月、岩槻城を攻めに参加して、20日、本多忠政と共に大手口を破り、力戦した。戦功を秀吉に激賞され、滝川忠征を遣わしてのしつきの刀、脇差しを与えられた。 文禄元年(1592年)、文禄の役では、肥前名護屋城に陣した。しかし渡海する前に、6月に肥後国葦北郡佐敷で梅北国兼による梅北一揆が起きたので、秀吉は激怒してこの鎮圧を(肥後国人一揆の際に)案内役だった長政に命じ、鎮圧部隊の大将に幸長を指名した。また、秀吉は徳川家康に要請して副将に陪臣である本多忠勝を付けさせた。ところが、現地に到着する前に一揆は鎮圧されていたので、幸長は途中で来た道を戻って、朝鮮に渡海することになった。長政は奉行として一揆の沙汰を行った。 幸長は朝鮮国都表出勢衆の一つとして兵3,000を率いた。伊達政宗は在陣衆とされてまだ出征を命じられていなかったが、長政と懇意にしていたので、幸長の後見人として同行したいと自発的な出征を秀吉に申し出て許可された。幸長・政宗は共に釜山浦で諸将と合流し、西生浦に築かれた倭城に在番した。その後は加藤清正隊と合流して各地を転戦した。 文禄2年(1593年)2月28日、秀吉は敵船の襲撃を撃退したという藤堂高虎を称賛し、慶尚道釜山港に長政・幸長父子を派遣すると告げて、船の通路の安全確保にあたらせた。同年11月20日、秀吉は、五奉行の1人であった長政を呼んで、(加藤光泰が同年8月に朝鮮で陣没したため)長政・幸長父子に(若狭国から移封して)甲斐国府中22万5,000石を与えると伝えた。配分も、幸長に16万石、長政に5万5,000石と、1万石は公料(蔵入地)と定められた。この頃、幸長は出征中だが、甲斐府中城主とされた。 文禄4年(1595年)に日明間で和議が成立したため帰国した。1月3日、秀吉は甲斐府中に戻った幸長を普請奉行の1人に命じて、信濃・甲斐・上野の人足を徴用させて、上野草津温泉に座所を建させた。なお、同月28日付の広厳院文書に甲斐国大泉寺等に禁制を下した書状が残っており、これには長継(ながつぐ)と署名している。幸長は生涯では長継の名を一番長く用いている。5月29日、秀吉は長政・幸長父子を派遣して陸奥国の蒲生秀行の居城・会津若松城と7つの支城を残し、領内の諸城をすべて破却させた。 関白・豊臣秀次に関して騒動があり、幸長は相婿の関係にあった秀次を弁護したことで秀吉の逆鱗に触れたが、前田利家の諫止もあって蟄居に留められた。6月19日、利家が幸長の身柄を引き取ることになって、前田家臣の三輪吉宗(藤兵衛)に能登国津向に配所の準備が命じられた。7月に秀次が高野山で切腹すると、連座する形で幸長も能登へと配流された。慶長元年(1596年)閏7月22日、利家・家康の取り成しがあったのか、およそ1年後に秀吉によって赦免され、勘気が解けた。
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