秀吉の一門衆とは? わかりやすく解説

秀吉の一門衆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 07:56 UTC 版)

木下勝俊」の記事における「秀吉の一門衆」の解説

幼少より豊臣秀吉に仕える一門衆1人として厚遇され家老蜂須賀正勝死後、その所領であった播磨国龍野城を、福島正則次に代わって与えられた。天正16年1588年)、豊臣姓を下賜された。 天正18年1590年)、小田原征伐に参陣する文禄の役では1,500名を率いて在陣衆の1人として名護屋城滞在した文禄3年(ないし2年)に若狭国後瀬山城81500石を与えられた。20歳前半にあたる1590年代初め頃の時期から和歌才能発揮し文禄の役の際に肥前国陣中へ向かう旅路記され文章和歌は『九州道之記』として遺されている。 慶長5年1600年)、会津征伐赴く五大老筆頭徳川家康の命で、勝俊は特に伏見城留め置かれ松の丸守備任された。しかし関ヶ原の戦いが始まると、東軍鳥居元忠信頼できる三河衆中心に城の守り固めようと考え寄せ手西軍に弟の秀秋含まれていると勝俊に疑いをかけて、退去しなければ攻め寄せる迫ったこのために勝俊は退去し北政所のいる京都向かった。 勝俊が伏見城退去し理由については諸説あるが、血はつながらないとは言え従兄弟にあたる豊臣秀頼のためにも関東味方するべきではないが、かといって石田三成謀叛荷担することもできず、城に残ると防戦の邪魔になると判断したためであるという。その他の異説としては、風情を好む勝俊が太閤築いた金吹の瓦の豪華絢爛な城が兵火見舞われるの見るのが忍びなくなって全てが疎ましくなって城を出て行ったとするものや、彼の歌道師匠であった細川幽斎同様(田辺城の戦い)に、天皇をはじめとした朝廷による救出工作があって里村昌叱が勝俊を迎え入れたとする説がある。一方で、勝俊を可愛がっていた北政所西軍支持していたためとする説もあるが、通説では北政所は反石田淀殿の側であり、まず東軍・勝俊と西軍小早川秀秋兄弟であることを理由仲裁して停戦させようとし、それが勝俊の退去失敗した後は秀秋伏見城入城させて東軍加勢させようとしたことが知られるいずれにしてもこれらの理由ならば、結局、勝俊は独断で城を出たことになる。 妻のうめ(宝泉院)は大坂人質となっていたが、勝俊の敵前逃亡知って激怒し、これを理由に後に離縁した戦後、元忠に追い出されとはいえ、勝俊が与えられ任務勝手に放棄した行為許し難きことであったので、家康伏見城退去理由に勝俊を除封処分とした。 慶長13年1608年)、父・家定死去後高台院北政所)の周旋によって遺領備中国足守2万5,000石)は安堵され、その裁量任されることになったこの際家康遺領を勝俊と利房に分賜するとも定めていたが、高台院寵愛する勝俊に遺領全て渡した。すると、所領得られなくなった弟・利房は抗議して家康泣きつき、約半年間、双方使者京都駿河往復して争議となった翌年9月江戸幕府分地沙汰犯して命に背いたという理由で、家定遺領全て没収とした。これで再び勝俊は失領したが、利房も同じであり、代わりに遠縁にあたる浅野長晟が、足守藩一時拝領し管理した。なお、利房は、大坂の陣徳川方として参戦して軍功挙げ、それによって晴れて父の遺領である足守藩継承認められている。

※この「秀吉の一門衆」の解説は、「木下勝俊」の解説の一部です。
「秀吉の一門衆」を含む「木下勝俊」の記事については、「木下勝俊」の概要を参照ください。


秀吉の一門衆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 04:45 UTC 版)

浅野幸長」の記事における「秀吉の一門衆」の解説

天正4年1576年)、近江国滋賀郡坂本浅野長政長吉)の長男として生まれる。童名を長満(ちょうみつ)。初名を長慶ながよし)といった。 父・長政安井重継と長勝の姉との間に生まれた子で、跡継ぎ夭折した長勝の養子となった。母・やや(長生院)の出生には2説あり、豊臣秀吉正室・ねね(高台院 / 北政所)の実妹叔母七曲殿(長勝の後妻)の養女になったとも、長勝と樋口美濃守の娘(長勝の最初の妻)との間にできた実子とも言う。ねねも長勝の養女であったことから、長政とは義兄妹の関係であり、何れにしても幸長は甥にあたる。 天正17年1589年4月従五位下左京大夫叙任される天正18年1590年)、小田原の役で父に付き従って出陣。これが初陣であり、当時15歳であった5月岩槻城攻め参加して20日本多忠政と共に大手口破り力戦した。戦功秀吉激賞され滝川忠征遣わしてのしつきの刀、脇差し与えられた。 文禄元年1592年)、文禄の役では、肥前名護屋城陣した。しかし渡海する前に6月肥後国葦北郡佐敷梅北国兼による梅北一揆起きたので、秀吉激怒してこの鎮圧を(肥後国人一揆の際に)案内役だった長政命じ鎮圧部隊大将幸長指名したまた、秀吉徳川家康要請して副将陪臣である本多忠勝付けさせた。ところが、現地到着する前に一揆鎮圧されていたので、幸長途中で来た道を戻って朝鮮渡海することになった長政奉行として一揆沙汰行った幸長朝鮮国表出勢衆の一つとして兵3,000率いた伊達政宗は在陣衆とされてまだ出征命じられていなかったが、長政懇意にしていたので、幸長後見人として同行したいと自発的な出征秀吉申し出て許可された。幸長政宗は共に釜山浦で諸将合流し、西生浦に築かれ倭城在番した。その後加藤清正隊と合流して各地転戦した文禄2年1593年2月28日秀吉敵船襲撃撃退したという藤堂高虎称賛し慶尚道釜山港長政幸長父子派遣する告げて、船の通路安全確保にあたらせた。同年11月20日秀吉は、五奉行1人であった長政呼んで、(加藤光泰同年8月朝鮮陣没したため長政幸長父子に(若狭国から移封して)甲斐国府中225,000石を与えると伝えた配分も、幸長16万石長政5万5,000石と、1万石は公料(蔵入地)と定められた。この頃幸長出征中だが、甲斐府中城主とされた。 文禄4年1595年)に日明間で和議成立したため帰国した1月3日秀吉甲斐府中戻った幸長普請奉行1人命じて信濃甲斐・上野人足徴用させて、上野草津温泉座所を建させた。なお、同月28日付の広厳院文書甲斐国大泉寺等に禁制下した書状残っており、これには長継(ながつぐ)と署名している。幸長生涯では長継の名を一番長用いている。5月29日秀吉長政幸長父子派遣して陸奥国蒲生秀行居城会津若松城7つ支城残し領内諸城をすべて破却させた。 関白豊臣秀次に関して騒動があり、幸長相婿の関係にあった秀次を弁護したことで秀吉逆鱗触れたが、前田利家諫止もあって蟄居留められた。6月19日、利家が幸長身柄引き取ることになって前田家臣の三輪吉宗藤兵衛)に能登国津向に配所準備命じられた。7月に秀次が高野山切腹すると、連座する形で幸長能登へと配流された。慶長元年1596年)閏7月22日、利家・家康の取り成しがあったのか、およそ1年後秀吉によって赦免され勘気解けた

※この「秀吉の一門衆」の解説は、「浅野幸長」の解説の一部です。
「秀吉の一門衆」を含む「浅野幸長」の記事については、「浅野幸長」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「秀吉の一門衆」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「秀吉の一門衆」の関連用語

秀吉の一門衆のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



秀吉の一門衆のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの木下勝俊 (改訂履歴)、浅野幸長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS