文禄の役
ぶんろく‐の‐えき【文禄の役】
文禄の役
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全国統一を達成した秀吉は、文禄元年(1592年)、明の征服を目指して、全国諸大名に朝鮮への出兵を命じた(文禄の役)。倭寇や女真族との紛争以外本格的な戦争経験がない朝鮮正規軍を、戦国時代を経て大量の鉄砲を装備した日本軍が圧倒し連戦連勝を重ね、また体制に不満があった朝鮮鮮正規軍民衆の一部の協力もあり、王都漢城や平壌を次々と占領するなど朝鮮領土の大部分を占領した。 文禄2年(1593年)になると、朝鮮に明軍が本格的に来援し攻勢に出る。明・朝鮮軍は平壌を抜き漢城に迫ったが、日本軍は碧蹄館の戦いでこれを撃破する。以後戦線は膠着し、日本軍は兵糧不足に陥り、明軍は数万匹の馬が餓死するなど、双方が兵站に苦しむこととなると、講和交渉が開始され休戦に入った。
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文禄の役
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詳細は「文禄・慶長の役#文禄の役」を参照 天正19年(1591年)8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始める。文禄元年(1592年)3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始された。 文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に 日本よりもよろずの商人も来たりしたなかに人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後につき歩き、男女・老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て、歩み候わねば後より杖にて追い立て、打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹の罪人を責めけるもかくやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり — 朝鮮日々記 と記録を残している。渡邊大門によると、最初、乱取りを禁止していた秀吉も方向転換し、捉えた朝鮮人を進上するように命令を発していると主張している。多聞院日記によると、乱妨取りで拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られた。薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている。
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文禄の役
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朝鮮出兵頃より宗茂は、統虎という名乗りから鎮虎(しげとら)、次いで宗虎(むねとら)へ名乗りを改めている。 文禄元年(1592年)からの文禄の役では小早川隆景を主将とする6番隊に2,500人の軍役を課せられて参陣している。4月、諸将と共に東萊城を攻め落とした。6月26日、宇喜多秀家の要請で火計と釣り野伏せ戦法を使って漢城北方の朝鮮軍を駆逐。漢城会議で全羅道の攻略が割り当てたられた6番隊は忠清道から南下したが、7月9日、10日の第一次錦山の戦い対高敬命7,000兵・8月9日の梁丹山の戦い対南平県監韓楯500兵・8月18日の第二次錦山の戦い対趙憲・僧将霊圭・海南県監辺応並1,300兵など数次にわたる朝鮮軍や義兵の攻撃を受けて後方を脅かされたため侵攻は停滞した。また、7月に遼東半島から来た明の援軍である祖承訓が平壌を攻撃したことにより主力の小早川隆景が漢城方面へ転出したため、宗茂率いる残存兵力は全羅道の入り口の錦山や茂朱の拠点を維持するにとどまったが、7月16日の第一次平壤の戦いは小西行長の後援として、大友義統と黒田長政と共に明の祖承訓と史儒を撃破した、後に宗茂も漢城方面への転出を命じられたため全羅道攻略を果たせなかった。 文禄2年(1593年)、李如松の率いる明軍主力が小西行長を攻撃して平壌を攻略し更に南下を始めると、1月10日に小西行長救援のため高橋統増と釣り野伏せを連携して龍泉の戦いに明の追撃軍を撃退した。 日本軍は迎撃を企画し、碧蹄館の戦いでは宗茂と高橋統増が先陣となった。1月26日午前2時頃、先に森下釣雲と十時惟由ら軽兵30名が敵状を偵察。敵軍は未明の内に進軍すると予測し、午前6時頃に碧蹄館南面の礪石嶺北側二所に布陣した。先鋒500を率いた十時連久と内田統続は、正面に少ない軍旗を立てて兵数を少なく見せ、査大受率いる明軍2,000を誘致して、越川峠南面の弥勒院にて正面で交戦。十時連久・内田統続・安田国継ら三将は鉄砲組の射撃で撹乱した後、真っ先に鑓を投げて数十騎を突落し、抜刀組が明軍騎兵に斬りかかって奮戦。敵軍を望客峴という小山まで押し込む。ここで、査大受の本隊が左右から救援に駆けつけ、十時の部隊を包囲。十時勢は鉄砲でこれに応戦しますが、敵の霹靂砲の砲撃を受けて窮地になった。やがて十時は手勢を回転して明・朝鮮軍の中央を突破し中陣と替わる。 そこで中陣の戸次統直は強弓を引いて20余りの敵兵を射落し援護した。しかし連久は李如梅の毒矢を受け、帰陣して間もなく戦死。旗奉行の池辺永晟も連久負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣と替わるを成功させたが、後の突撃戦で戦死した。 宗茂と統増の本隊2,000は、先鋒の連久らと中陣700の小野鎮幸・米多比鎮久を陣替する際に、統増と戸次鎮林を陣頭に立て、疾風の如く馳せて左側面から敵後詰の高彦伯の朝鮮軍数千を奇襲し撃退。さらに宗茂は800騎の堅固な備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈突撃し、戦果を拡大した。寡兵の立花・高橋勢はこの緒戦で奮戦した後、越川峠北方右側にて軍を休息させた。のち小早川隆景など日本軍先鋒隊が来ると疲労の深い立花勢を後方に下げ、西方の小丸山に移陣した。 午前11時頃、小丸山から北への丘の森陰に移動し、数が多い敵軍への恐怖を鎮めるため、兵卒たちを”敵を背にして陣す”と埋伏させた。高陽原にて小早川隆景の先鋒の粟屋景雄と井上景貞が明・朝鮮軍を牽制する際、戦機を捉えるように、朝とは逆に兵一人に三本の軍旗を背負し現わせて、敵軍に「日本軍は大軍である」と騙した。そして先に鉄砲200挺を三連射し、長刀や長槍を高く揚げて白い刃と300名ほどの将兵が被る金兜で日光を反射させ、敵の将兵の目を晦ませて左側面から突襲。立花・高橋軍およそ3,000は敵本陣へ突撃し白兵乱戦になるも、宗茂自身は馬に乗って飛将のように飛び出して長槍や長刀を提げ、一騎駆し敵兵将15人を斬殺。直次も雷のような大声をあげ奮迅突撃し、全軍は敵500騎を討ち取った。 立花・高橋軍は善戦しながらも高陽原から北へ敵本陣の碧蹄館に進撃。明・朝鮮軍を同士討させ、小早川隆景・小早川秀包・筑紫広門・毛利元康・吉川広家・宇喜多秀家らが三方より明軍を包囲した。このとき立花軍の金備え先鋒隊長の安東常久は李如松と一騎討ちして落馬させたが、李如梅の矢を受けて戦死。その後、明副総兵の楊元が火軍(火器装備部隊)を率いて援軍に来るも宇喜多軍の戸川達安ともにこれを撃破。恵陰嶺を越え坡州への虎尾里までの追撃戦は立花軍が敵を六ヶ所破った。この際、もう一人の金備え先鋒隊長の小野成幸や与力衆の小串成重・小野久八郎と一門の戸次鎮林、そして高橋家中の今村喜兵衛・井上平次・帆足左平・梁瀬新介も戦死したが、李如松の親衛隊も李有升など80余名戦死した。大きな被害を出しながらも立花軍が明軍を食い止めたために戦機が生まれ、小早川隆景などの日本軍が明軍を撃破した。宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、敵の兜首を二つずつ鞍の両側に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。『甫庵太閤記』に「鬼神も敵す可らざる御功績もあり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の異名で呼ばれた。小早川隆景は「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領した。 6月の第二次晋州城攻防戦では、小早川隆景などの5番隊として明・朝鮮軍の後巻き部隊を牽制し、援軍を寄せ付けなかった。 上記とは別に次の武勇伝が伝わっている。 攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵劉綎ら約三万余の明軍を各地に駐屯した。6月14日、宜寧に集結していた朝鮮都元帥金命元・平安巡辺使李薲・全羅巡察使権慄・全羅兵使宣居怡・防禦使李福男・助防将李継鄭・鄭名世・慶尚左兵使高彦伯・右兵使崔慶会・忠清兵使黄進・京畿助防将洪季男・星州牧使郭再祐・倡義使金千鎰・義兵高従厚などの朝鮮軍5万余は咸安に到着して日本軍の進軍を止めさせたが、日本軍先鋒隊の立花宗茂と高橋統増と小早川秀包と共に兵4千で釣り野伏せ戦法を連携してこれを敗走させた。部分の朝鮮軍は15日に全州へ撤退し、金千鎰を主に一部の朝鮮軍は晋州城に入る。よって日本軍は昌原より咸安・宜寧を通過して晋州城へ進軍した。 『問註所家譜』によると文禄2年(1593年)9月2日、問註所統景・問註所正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって明の劉綎と晋州城外西南方二十里の河東郡に遭遇し以下数百兵は戦死した、宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に退却した。 同年後半から文禄4年(1595年)前半頃の名は正成、さらに親成と改めている。
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文禄の役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 14:01 UTC 版)
1592年4月12日、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄の役)が始まると、慶尚道水軍は壊滅したが、李舜臣と李億祺は全羅道水軍を温存して、初めは元均(慶尚右水使)の救援要請を拒否した。5月になって釜山西方の日本水軍支配域に突如進入し、巨済島東岸に停泊していた藤堂高虎と堀内氏善らの中規模の日本船団を襲撃。帰途も遭遇した日本船を二度に渡って攻撃して、戦果をあげてすばやく撤収した。 詳細は「玉浦海戦」を参照 攻勢主力を釜山から漢城のラインを軸に、平壌・咸鏡道などに展開していた日本軍は、釜山西方の朝鮮南岸で李舜臣の日本船攻撃が活発になると、7月になって脇坂安治(動員定数1500人)、九鬼嘉隆(動員定数1500人)、加藤嘉明(動員定数750人)を各方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編成して李舜臣に対抗する事とした。 しかし李舜臣は、囮を使って潮流の激しい海峡に単独行動中の脇坂隊(動員定数1500人)を誘き寄せて、閑山島海戦で撃破した。続いて、脇坂の援護のために安骨浦まで進出して停泊していた加藤・九鬼水軍を襲撃し、戦果を挙げた。この2つの海戦の結果、当初専ら輸送用だった日本水軍の船にも大鉄砲が備付けられ、日本軍は勢力範囲の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒や大鉄砲を備えて、水陸併進して活動するようになった。この方針転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は、釜山浦攻撃、熊川攻撃など、朝鮮水軍は被害を多く出すばかりで成果が上がらなくなり、朝鮮水軍の出撃回数は激減した。特に釜山浦は、文禄の役の開戦直後の日本軍による占領以来、日本の肥前名護屋から壱岐・対馬を経て釜山に至るルートが日本軍の海上交通路になっており、補給物資は一旦釜山に荷揚げされた後、陸路内陸に輸送されていた。云わば釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であった。朝鮮水軍の李舜臣は「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之を覆せば、賊(日本軍)は必ず據(拠)を失う。」として、朝鮮水軍の総力をあげ釜山奪回を目指したが、日本軍に撃退され、朝鮮水軍は撤退した。これにより釜山は日本軍にとって安泰な場所となり、戦争の終結まで補給連絡上の根本拠点として機能し続けることになる。
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