文禄の役とは? わかりやすく解説

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ぶんろく‐の‐えき【文禄の役】

読み方:ぶんろくのえき

文禄元年(1592)豊臣秀吉が明の征服目的朝鮮出兵した侵略戦争。約16の軍を釜山上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍朝鮮水軍攻撃民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。→慶長の役


文禄の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:01 UTC 版)

豊臣政権」の記事における「文禄の役」の解説

全国統一達成した秀吉は、文禄元年1592年)、明の征服目指して、全国諸大名朝鮮への出兵命じた(文禄の役)。倭寇女真族との紛争以外本格的な戦争経験がない朝鮮正規軍を、戦国時代経て大量鉄砲装備した日本軍圧倒し連戦連勝重ね、また体制に不満があった朝鮮正規軍民衆一部協力もあり、王都漢城平壌次々と占領するなど朝鮮領土大部分占領した文禄2年1593年)になると、朝鮮明軍本格的に来援攻勢に出る。明・朝鮮軍は平壌抜き漢城迫ったが、日本軍碧蹄館の戦いでこれを撃破する以後戦線膠着し日本軍兵糧不足に陥り、明軍数万匹の馬が餓死するなど、双方兵站苦しむこととなると講和交渉開始され休戦入った

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文禄の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)

豊臣秀吉」の記事における「文禄の役」の解説

詳細は「文禄・慶長の役#文禄の役」を参照 天正19年1591年8月秀吉来春に「唐入り」を決行することを全国布告し、まず肥前国出兵拠点となる名護屋城築き始める。文禄元年1592年3月、明の征服朝鮮服属目指し宇喜多秀家元帥とする16軍勢朝鮮出兵した。初期日本軍朝鮮軍撃破し漢城平壌などを占領するなど圧倒したが、明の援軍到着したことによって戦況膠着状態となり、文禄2年1593年)、明との間に講和交渉開始された。 文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に 日本よりもよろずの商人も来たりしたなか人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後につき歩き男女老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て歩み候わねば後よりにて追い立て打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹罪人責めけるもかくやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えをくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり — 朝鮮日々記 と記録残している。渡邊大門によると、最初乱取り禁止していた秀吉方向転換し捉えた朝鮮人進上するように命令発していると主張している。多聞院日記によると、乱妨取り拉致され朝鮮人女性子供略奪品一緒に対馬壱岐経て名護屋送られた。薩摩武将大島忠泰の角右衛門という部下朝鮮人奴隷国許に「お土産」として送ったと書状に書いている。

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文禄の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 10:21 UTC 版)

立花宗茂」の記事における「文禄の役」の解説

朝鮮出兵頃より宗茂は、統虎という名乗りから鎮虎(しげとら)、次いで宗虎(むねとら)へ名乗り改めている。 文禄元年1592年)からの文禄の役では小早川隆景主将とする6番隊に2,500人の軍役課せられて参陣している。4月諸将と共に東萊城を攻め落とした6月26日宇喜多秀家要請火計釣り野伏せ戦法使って漢城北方朝鮮軍駆逐漢城会議全羅道攻略割り当てたられた6番隊は忠清道から南下したが、7月9日10日第一次錦山戦い対高敬命7,000兵・8月9日丹山の戦い南平県監韓500兵・8月18日第二次錦山戦い趙憲・僧将霊圭・海南県監辺応並1,300兵など数次にわたる朝鮮軍義兵攻撃受けて後方脅かされたため侵攻停滞したまた、7月遼東半島から来た明の援軍である祖承訓平壌攻撃したことにより主力小早川隆景漢城方面転出したため、宗茂率い残存兵力全羅道入り口錦山茂朱拠点維持するとどまったが、7月16日第一次平壤の戦い小西行長後援として、大友義統黒田長政と共に明の祖承訓と史儒を撃破した、後に宗茂漢城方面への転出命じられたため全羅道攻略果たせなかった。 文禄2年1593年)、李如松率い明軍主力小西行長攻撃して平壌攻略し更に南下始めると、1月10日小西行長救援のため高橋統増釣り野伏せ連携して龍泉戦いに明の追撃軍を撃退した日本軍迎撃企画し碧蹄館の戦いでは宗茂高橋統増先陣となった1月26日午前2時頃、先に森下十時惟由ら軽兵30名が敵状偵察敵軍未明の内に進軍する予測し午前6時頃に碧蹄館南面の礪石嶺北側二所布陣した。先鋒500率いた十時連久と内田統続は、正面少な軍旗立てて兵数少なく見せ、査大受率い明軍2,000誘致して越川南面弥勒院にて正面交戦十時久・内田統続・安田国継ら三将は鉄砲組射撃撹乱した後、真っ先に鑓を投げて数十騎を突落し抜刀組が明軍騎兵に斬りかかって奮戦敵軍を望客峴という小山まで押し込む。ここで、査大受本隊左右から救援駆けつけ十時部隊包囲十時勢は鉄砲でこれに応戦しますが、敵の霹靂砲の砲撃受けて窮地になった。やがて十時手勢回転して明・朝鮮軍の中央突破し中陣替わる。 そこで中陣戸次統直は強弓引いて20余り敵兵射落援護した。しかし連久は李如梅毒矢を受け、帰陣して間もなく戦死旗奉行池辺永晟も連久負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣替わる成功させたが、後の突撃戦で戦死した宗茂と統増の本隊2,000は、先鋒の連久らと中陣700小野鎮幸米多比鎮久を陣替する際に、統増と戸次陣頭立て疾風如く馳せて左側面から敵後詰の高彦伯の朝鮮軍数千奇襲し撃退。さらに宗茂800騎の堅固な備え率いて明・朝鮮軍を猛烈突撃し戦果拡大した寡兵立花高橋勢はこの緒戦奮戦した後、越川北方右側にて軍を休息させた。のち小早川隆景など日本軍先鋒隊が来ると疲労の深い立花勢を後方下げ西方小丸山に移陣した午前11時頃、小丸山から北への丘の陰に移動し数が多い敵軍への恐怖鎮めるため、兵卒たちを”敵を背にして陣す”と埋伏させた。高陽原にて小早川隆景先鋒粟屋景雄井上景貞が明・朝鮮軍を牽制する際、戦機捉えるように、朝とは逆に一人三本軍旗背負し現わせて、敵軍に「日本軍大軍である」と騙した。そして先に鉄砲200挺を三連射し、長刀長槍高く揚げて白い刃と300名ほどの将兵が被る金兜で日光反射させ、敵の将兵の目を晦ませて左側面から突襲。立花高橋およそ3,000敵本陣へ突撃し白兵乱戦になるも、宗茂自身は馬に乗って飛将のように飛び出して長槍長刀提げ一騎駆し敵兵15人を斬殺。直次ものような大声をあげ奮迅突撃し全軍は敵500騎を討ち取った立花高橋軍は善戦しながらも高陽原から北へ敵本陣の碧蹄館進撃明・朝鮮軍を同士討させ、小早川隆景小早川秀包筑紫広門毛利元康吉川広家宇喜多秀家らが三方より明軍包囲した。このとき立花軍の金備え先鋒隊長安東常久李如松一騎討ちして落馬させたが、李如梅の矢を受けて戦死その後、明副総兵の楊元が火軍(火器装備部隊)を率いて援軍に来るも宇喜多軍の戸川達安ともにこれを撃破。恵陰嶺を越え坡州への虎尾里までの追撃戦立花軍が敵を六ヶ所破ったこの際もう一人の金備え先鋒隊長小野成幸や与力衆の小串成重・小野久八郎と一門戸次、そして高橋家中の今村喜兵衛井上平次・帆足左平梁瀬新介戦死したが、李如松親衛隊有升など80余名戦死した大きな被害出しながらも立花軍が明軍食い止めたために戦機生まれ小早川隆景などの日本軍明軍撃破した宗茂はこの激戦騎馬まで血塗れとなり、敵の兜首二つずつ鞍の両側に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。『甫庵太閤記』に「鬼神敵す可らざる御功績もあり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の異名呼ばれた小早川隆景は「立花家の3,000他家1万匹敵する」と評価し秀吉からも「日本無双勇将たるべし」との感状拝領した6月第二次晋州城攻防戦では、小早川隆景などの5番隊として明・朝鮮軍の後巻き部隊牽制し援軍寄せ付けなかった。 上記とは別に次の武勇伝伝わっている。 攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵劉綎ら約三万余明軍各地駐屯した。6月14日宜寧集結していた朝鮮元帥金命元・平安巡辺使薲・全羅巡察使権慄全羅兵使宣居怡・防禦使李福男・助防将継鄭・鄭名世・慶尚左兵使高彦伯・右兵使崔慶会・忠清兵使黄進・京畿助防将洪季男・星州牧使郭再祐・倡義使金千鎰・義兵高従厚などの朝鮮軍5万余は咸安到着して日本軍進軍止めさせたが、日本軍先鋒隊の立花宗茂高橋統増小早川秀包と共に兵4千で釣り野伏せ戦法連携してこれを敗走させた。部分朝鮮軍15日全州撤退し、金千鎰を主に一部朝鮮軍晋州城に入る。よって日本軍昌原より咸安宜寧通過して晋州城へ進軍した。 『問註所家譜』によると文禄2年1593年9月2日問註所統景問註所正白兄弟小早川秀包先鋒になって明の劉綎晋州城外西南二十里の河東郡遭遇し以下数百兵は戦死した宗茂敗れた小早川軍救援のため劉綎対戦し劉綎敗れて晋州城に退却した同年後半から文禄4年1595年前半頃の名は正成、さらに親成と改めている。

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文禄の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 14:01 UTC 版)

李舜臣」の記事における「文禄の役」の解説

1592年4月12日豊臣秀吉朝鮮侵略(文禄の役)が始まると、慶尚道水軍壊滅したが、李舜臣李億祺全羅道水軍温存して、初め元均慶尚使)の救援要請拒否した5月になって釜山西方日本水支配域に突如進入し巨済島東岸停泊していた藤堂高虎堀内氏善らの中規模日本船団襲撃帰途遭遇した日本船を二度渡って攻撃して戦果をあげてすばやく撤収した詳細は「玉浦海戦」を参照 攻勢主力釜山から漢城ラインを軸に、平壌咸鏡道などに展開していた日本軍は、釜山西方朝鮮南岸李舜臣日本攻撃活発になると、7月になって脇坂安治動員定数1500人)、九鬼嘉隆動員定数1500人)、加藤嘉明動員定数750人)を各方面から招集し海上戦闘用の水軍編成して李舜臣対抗する事とした。 しかし李舜臣は、囮を使って潮流激し海峡単独行動中の脇坂隊(動員定数1500人)を誘き寄せて、閑山島海戦撃破した続いて脇坂援護のために安骨浦まで進出して停泊していた加藤九鬼水軍襲撃し戦果挙げた。この2つ海戦結果当初専ら輸送用だった日本水軍の船にも大鉄砲備付けられ、日本軍勢力範囲要所城砦倭城鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒大鉄砲備えて水陸併進して活動するようになったこの方転換有効に機能し以降李舜臣による日本側の泊地への攻撃は、釜山攻撃熊川攻撃など、朝鮮水軍被害多く出すばかりで成果が上がらなくなり朝鮮水軍出撃回数激減した。特に釜山浦は、文禄の役の開戦直後日本軍による占領以来日本肥前名護屋から壱岐・対馬経て釜山に至るルート日本軍海上交通路になっており、補給物資は一旦釜山荷揚げされた後、陸路内陸輸送されていた。云わば釜山日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であった朝鮮水軍李舜臣は「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之を覆せば、賊(日本軍)は必ず據(拠)を失う。」として、朝鮮水軍総力をあげ釜山奪回目指したが、日本軍撃退され朝鮮水軍撤退した。これにより釜山日本軍にとって安泰な場所となり、戦争の終結まで補給連絡上の根本拠点として機能し続けることになる。

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