文禄の役での五島勢とは? わかりやすく解説

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文禄の役での五島勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:33 UTC 版)

五島氏」の記事における「文禄の役での五島勢」の解説

文禄元年1592年4月12日朝鮮進撃した五島勢は10月3日一番隊先鋒となって奮戦し釜山鎮城を即日攻略した翌日には慶尚道東莱城を落とし17日には密陽府を攻めてこれを落とし、さらに進撃し慶尚道忠清道京畿道諸城戦わずして攻略した秀吉侵攻軍はわずか19日朝鮮首都漢城落とした首都漢城占領先立ち朝鮮国王首都捨てて逃亡し民衆暴徒化景福宮奴婢身分台帳保管していた掌隷院などに放火し消失させた。 朝鮮水軍李舜臣釜山西方に展開中の日本船を攻撃し数千日本陸軍水軍が対応の為に拘束された。また、釜山から漢城までの輸送路がゲリラ攻撃されると内陸部では兵糧備蓄の不安が起きた7月には朝鮮救援要請応えた明の遼東副総兵・祖承訓北京命令待たず援軍発した祖承訓朝鮮義州から南下をはかり平壌城を攻めるが小西行長らに撃退された。 文禄2年1593年正月、明は李如松を総兵官として43000の兵をもって平壌小西行長包囲した。この戦いの際、一番隊戦死者1600名で、五島勢でも太田弾正、江十郎青方新八らが討ち死にした行長撤退強いられ漢城まで後退した漢城では、六番隊の小早川隆景軍も撤退して来て食糧事情紛糾極めたそんな中勢い乗った李如松南下して漢城迫った。隆景は宇喜多秀家立花宗茂吉川広家とともに李如松碧蹄館迎え撃ち破った碧蹄館の戦い)。この際五島純玄出陣していた。 しかし兵糧不足に陥った日本軍漢城撤退し釜山方面集結した両軍とも講和機運高まり明か使者が来たのにともなって和平交渉入った折り合いがつかず難航したこのような最中五島勢に一大事起こった陣中疱瘡かかった純玄が、7月28日逝去した。純玄は夫人との間に子がなかったので、陣中五島家承統を早速にも決せねばならなかった。大浜孫右衛門玄雅は、平田甚吉青方善助らと協議し小西行長訪れ、純玄の遺言伝えた行長はすぐに名護屋城使い走らせた家臣一同の不安が解けないので、玄雅を呼び寄せると、純玄の遺言に従って五島家相続するように勧めた。玄雅は一度拒み行長はさらに甚吉召して協議し、玄雅を再度召して留守五島八郎兵衛息子養子として受け入れた上で五島家相続することを勧めた。その条件で玄雅は第21五島家当主になった北京から明の使節がきた。慶長元年9月1日大坂城において明使を引見した秀吉は明の国書のなかの、「茲特封爾為日本国王賜之誥命(ここに特に爾を封じて日本国王に誥命賜う)」の部分見て激怒し小西行長和平交渉詐欺であったことがわかり、この場で誅殺ようとした西笑承兌取り成し行長自身陳謝行長は命を取り留めた秀吉再度出兵命じた

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