文禄の役での五島勢
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文禄元年(1592年)4月12日、朝鮮に進撃した五島勢は10月3日一番隊の先鋒となって奮戦し、釜山鎮城を即日攻略した。翌日には慶尚道東莱城を落とし、17日には密陽府を攻めてこれを落とし、さらに進撃して慶尚道、忠清道、京畿道の諸城は戦わずして攻略した。秀吉侵攻軍はわずか19日で朝鮮の首都漢城を落とした。首都漢城占領に先立ち朝鮮国王は首都を捨てて逃亡し、民衆は暴徒化し景福宮や奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院などに放火し消失させた。 朝鮮水軍の李舜臣が釜山西方に展開中の日本船を攻撃し、数千の日本陸軍と水軍が対応の為に拘束された。また、釜山から漢城までの輸送路がゲリラ攻撃されると内陸部では兵糧備蓄の不安が起きた。7月には朝鮮の救援要請に応えた明の遼東副総兵・祖承訓が北京の命令を待たず援軍を発した。祖承訓は朝鮮の義州から南下をはかり平壌城を攻めるが小西行長らに撃退された。 文禄2年(1593年)正月、明は李如松を総兵官として4万3000の兵をもって、平壌の小西行長を包囲した。この戦いの際、一番隊の戦死者1600名で、五島勢でも太田弾正、江十郎、青方新八らが討ち死にした。行長は撤退を強いられ、漢城まで後退した。 漢城では、六番隊の小早川隆景軍も撤退して来て食糧事情が紛糾を極めた。そんな中勢いに乗った李如松が南下して漢城に迫った。隆景は宇喜多秀家、立花宗茂、吉川広家らとともに李如松を碧蹄館に迎え撃ち破った(碧蹄館の戦い)。この際、五島純玄も出陣していた。 しかし兵糧不足に陥った日本軍は漢城を撤退し、釜山方面に集結した。両軍とも講和の機運が高まり、明から使者が来たのにともなって、和平交渉に入ったが折り合いがつかず難航した。 このような最中、五島勢に一大事が起こった。陣中で疱瘡にかかった純玄が、7月28日逝去した。純玄は夫人との間に子がなかったので、陣中で五島家承統を早速にも決せねばならなかった。大浜孫右衛門玄雅は、平田甚吉、青方善助らと協議し小西行長を訪れ、純玄の遺言を伝えた。行長はすぐに名護屋城に使いを走らせたが家臣一同の不安が解けないので、玄雅を呼び寄せると、純玄の遺言に従って五島家を相続するように勧めた。玄雅は一度拒み、行長はさらに甚吉を召して再協議し、玄雅を再度召して、留守役五島八郎兵衛の息子を養子として受け入れた上で五島家を相続することを勧めた。その条件で玄雅は第21代五島家当主になった。 北京から明の使節がきた。慶長元年9月1日、大坂城において明使を引見した秀吉は明の国書のなかの、「茲特封爾為日本国王賜之誥命(ここに特に爾を封じて日本国王に誥命賜う)」の部分を見て激怒し、小西行長の和平交渉が詐欺であったことがわかり、この場で誅殺しようとした。西笑承兌の取り成しと行長自身の陳謝で行長は命を取り留めた。 秀吉は再度出兵を命じた。
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