文禄・慶長の役以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 15:48 UTC 版)
朝鮮撤退後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)、広高は唐津城の築城を開始した。この際に名護屋城を解体し、その遺材を使用した。これ以降に、二度と城が利用できないように、要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業が行われたが、その理由と時期については明確でない。 岸田家文書によると、島原の乱直後に巡検した江戸幕府老中の指示で、一揆が起こった際に名護屋城が利用されないように破却したと記録されている。また、それ以前の一国一城令を受けての破却とも、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたとの見方もある。また、大手門は伊達政宗に与えられ、仙台城に移築されたと伝わっている。
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