仙台城とは? わかりやすく解説

仙台城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/14 03:26 UTC 版)

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仙台城
宮城県
外観大手門脇櫓
別名 青葉城、五城楼
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 伊達政宗
築城年 1601年慶長6年)
主な改修者 伊達忠宗
主な城主 伊達氏
廃城年 1871年明治4年)
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 外観大手門脇櫓
位置 北緯38度15分8.92秒 東経140度51分22.16秒 / 北緯38.2524778度 東経140.8561556度 / 38.2524778; 140.8561556 (仙台城)座標: 北緯38度15分8.92秒 東経140度51分22.16秒 / 北緯38.2524778度 東経140.8561556度 / 38.2524778; 140.8561556 (仙台城)
仙台城
仙台城
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仙台城(せんだいじょう、旧字体: 仙臺城)は、宮城県仙台市青葉区陸奥国宮城郡)の青葉山にあった日本の城平山城)。雅称は青葉城。国の史跡[1]

慶長年間に伊達政宗が築城してから、廃藩置県廃城令までの約270年にわたり伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。二代藩主伊達忠宗の代に完成した仙台城は約2万坪で、大藩にふさわしい大規模な城だった。地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく城としての役割を終えて、明治維新を迎えた。

その後は明治から大正にかけて陸軍用地となり多くの建築物が解体された。数少ない遺構であった大手門、脇櫓、巽門は国宝(旧国宝)に指定されていたが、第二次世界大戦時の仙台空襲により焼失した。現在では、宮城県知事公舎正門に転用された寅の門の部材が残るのみである。

青葉城

仙台城には青葉城という雅称がある。青葉城の名称は青葉山に由来し、おそらく江戸時代中期以降に使われるようになった名称だろうと考えられている[2]

正保2年(1645年)の『奥州仙台城絵図』[3]において、本丸と二の丸の間部分に青葉山の文字があり、これが史料上の青葉山の初出とされる[2]

江戸時代中期以降に成立した仙台藩の地誌『奥羽観蹟聞老志』や『残月台本荒萩』は、青葉城の由来について次のように記している。慶長5年(1600年)に伊達政宗と上杉景勝が戦った際、信夫郡信夫山(現在の福島県福島市)の羽黒神社とその別当である寂光寺が功を挙げた。そのことから、慶長7年(1602年)に寂光寺の法印慶印が仙台に移り、仙台城の本丸と後の二の丸の間、残月亭の南脇に羽黒神社と寂光寺が建立された。春にこの一帯が他の山々より早く美しい新緑を見せること、また寂光寺の山号が青葉山であることから、「青葉ヶ崎」と呼ばれるようになった[2]

歴史

江戸時代の仙台城絵図(宮城県図書館蔵)

現在の仙台城跡のある青葉山南東端は、それぞれに断崖を持つ要害であり、南北朝時代岩切城合戦を記した文書にある「虚空蔵城」は、青葉山にあったという説がある[4]戦国時代には国分氏が「千代城」を建てたとされ、ここから「仙台」という地名が生まれたという伝承がある。

近世

伊達政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。1600年(慶長5年)12月、政宗は青葉山に登って縄張りを開始[4]。地名を仙臺新字体:仙台)と改めた。

仙台が新しい本拠地に選ばれた理由として、

  1. 仙台付近は陸路は東海道の延長上にある「海道」とかつての東山道に由来する「山道」が合流し、水路は名取川・広瀬川を経由して閖上などの港から太平洋に通じるなど交通の要所であったこと。
  2. 岩出山城を居城に定めたのは豊臣政権の伊達氏を封じ込める政策によって一方的に決められた城であったこと。
  3. 関ヶ原の戦いの際に徳川家康と約束されたと言われている「百万石の御墨付」が実現されていた場合(置賜郡・伊達郡など7郡が政宗に与えられた場合)、岩出山城は新しい領国の中で北に偏り過ぎていたこと。

が、あったとみられている。新城は関ヶ原の合戦が迫る緊迫化した状況の中で計画が立てられ、千代城(仙台城)以外にも仙台に近い北目城を改築して本拠地にする構想も検討されていた(実際に慶長出羽合戦では北目城に陣が置かれている)。しかし、北目城を本拠地として改築するには時間がかかると判断され、最終的には仙台を新しい本拠地とすることになった[5]。 建設費の一部は、宮鉱山(現蔵王町)などで採掘された金で賄われた[6]

政宗が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はあるが天守は持たなかった。これらの点で時代の流行に背を向けたが、結果として仙台城は、ビスカイノをして「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、同時代に比類ない堅城となった。

しかし、山上にある本丸は街への往来が不便であった。そのため、伊達忠宗は1638年(寛永15年)に二の丸の造営に着手し、翌年には居所を二の丸に移した[4]。二の丸は本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。時期は不明だが、これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られた。これ以降、本丸が使われることは少なくなり二の丸が仙台城の中枢になった。

江戸時代を通じて、仙台城は火災や地震により何度か建物や石垣の一部を失い、その都度再建された。

戊辰戦争でも仙台が戦場になることはなかったため、仙台城は創建以来一度も攻撃を受けずに要塞としての役目を終えた。

近代

在りし日の大手門
川瀬巴水『仙台 青葉城』(1933年・昭和8年)

1868年(慶応4年)、仙台藩は新政府軍に降伏した。1869年(明治2年)の版籍奉還で仙台城二の丸に勤政庁が設置された。廃藩置県が行われた1871年(明治4年)には陸軍組織である東北鎮台(後に仙台鎮台)が仙台城二の丸を本営にして駐屯した。1873年(明治6年)の「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」で仙台城は「存城」とされる[4]。大手門前の道は元々、屈曲した形だったが、軍により直線化された[7]。なお、仙台鎮台は1888年(明治21)に陸軍第2師団となる。

仙台城二の丸が軍の施設となる一方、本丸は軍の管理下に置かれたもののここに軍の施設は建設されなかったようである。ただし、本丸大広間跡付近に大規模な遺構の破損が見られ、演習場所として使用された可能性がある。本丸の建物は1874年(明治7年)頃の時点でなくなっていたと見られ、1876年(明治9年)の明治天皇の行幸の際、本丸御殿大広間はすでになかったとも伝わる[7]

仙台本丸の跡地には1902年(明治35年)に昭忠碑が、1904年(明治37年)に招魂社が建立され、軍事関係者の慰霊の場となった。これらの施設への参拝のため、追廻から本丸へ通じる道が軍により整備されたと見られる。仙台市は1925年(大正14年)に軍用地を借りる形で青葉山自然公園を設置した。この際に、大手門から本丸まで人々が通行できるようになった。これが現在の青葉山公園の始まりである。1939年(昭和14年)に招魂社は宮城縣護國神社となり、1942年(昭和17年)にかけて神社周辺の造成工事が行われた[7]

二の丸では1882年(明治15年)に火災が起き、建物が焼失した。火災を免れていた大手門と大手門の隅櫓(脇櫓)は1931年(昭和6年)に国宝保存法により国宝に指定された[7]。また、大手門から本丸への途中にある中門(寅門)は1920年(大正9年)に解体され、第2師団長官舎に転用されたと伝わる。これは現在の宮城県知事公館の門であり、県指定有形文化財となっている[8]

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月10日未明、アメリカ軍による仙台空襲の際、米軍のB29により投下された焼夷弾により、第2師団の建物、大手門、脇櫓(隅櫓)、巽門、護国神社などほとんどが焼失した[7]

現代

終戦後、アメリカ陸軍が仙台城二の丸跡地に進駐し、キャンプセンダイとした。土地の造成や建物の建築が行われ、その際、大手門跡を通る道路が掘削され、中島池跡が埋め立てられたとみられる。1953年(昭和28年)に都市公園として青葉山公園が開園し、1957年(昭和 32年)に二の丸跡がアメリカ軍から返還された。二の丸跡地は東北大学の敷地となり、東北大学川内キャンパスの一部となった[7]。現在の川内キャンパス南部の文系四学部、付属図書館、付属植物園のある場所が二の丸跡である。

広瀬川河畔の追廻では終戦後の1945年(昭和20年)10月に500戸の住宅が建てられたが[7]、仙台市はここを青葉山公園の一部として計画した。この問題は半世紀以上に亘り、最後の住宅が取り壊されたのは2023年(令和5年)だった[9]。(川内追廻参照)

1960年(昭和35年)、三の丸跡地に仙台市博物館が開館した[4]。 1962年(昭和37)には、市民の発案を契機に青葉城大手門並隅櫓復興期成会が発足した。1963年(昭和38年)に大手門脇櫓の復元工事が始まり、復元された脇櫓が1967年(昭和42年)に仙台市へ寄贈された[7]

1995年(平成7年)、仙台市は仙台開府400年を記念して本丸北壁石垣の修復と、石垣北東角の艮櫓の復元を発表した。1997年(平成9年)に石垣の修復が始まったが、その際の発掘調査で石垣の内部により古い石垣が発見された。これは貴重な発掘成果であり、艮櫓の復元の是非が問われることになった。2002年(平成14年)に仙台市は艮櫓復元を取り止め、それに替わり仙台城の国史跡指定を目標とした。2003年(平成15年)8月に仙台城は国の史跡に指定された[7]。また、 2006年(平成18年)に日本100名城(8番)に選定された。

東日本大震災で損傷を受けた脇櫓(手前)と城壁(左奥)

仙台城跡は現代においても何度か災害で被害を受けた。

石垣崩落による通行止め
政宗像が見られない旨の告知
天幕に覆われた政宗像

構造

1本丸 2二の丸 3勘定所 O三の丸 H大手門

初代伊達政宗期に造営された青葉山の本丸、西の丸、二代伊達忠宗期に造営された青葉山山麓の二の丸、三の丸(東の丸)と、それに付随する櫓、門からなる。広瀬川を城の外堀としている。

本丸

仙台城本丸 大広間障壁画 扇面図(仙台市博物館蔵)
仙台城本丸 大広間障壁画 鳳凰図(松島町蔵)

石垣の北面に入り口である詰門(つめのもん)があり、本丸の中央に中核的な施設である本丸御殿、周囲には、詰門両脇に2基(西脇櫓・東脇櫓)、北東部には1基(艮櫓)、眺瀛閣の南に1基、計4基の3重櫓、1基の二重櫓、多門櫓などが建ち並んでいた。本丸御殿は北側に公式な御殿である大広間、南側に藩主の生活空間である奥御殿が配置されていた。430畳の大広間は狩野派による金碧の障壁画で飾られ、聚楽第の大広間と類似した設計であった[11]。大広間には藩主が座する上段の間の上に将軍専用の上々段の間があり[11]、将軍が訪れたときにのみ開かれる御成門まで準備してあったが、最後まで訪れることはなかった。だが近年、青葉城資料展示館の学芸員である大沢慶尋氏は御成門は一度だけ1611年にスペイン王国大使としてビスカイノが御成門を訪れ、伊達政宗がビスカイノに上段の間へ譲らせて伊達政宗自ら下段の間に座って迎えたのではないかという説を提唱している。城郭建築では珍しいことに大広間の東側には清水の舞台のように崖に迫り出すように作られた懸造の眺瀛閣(ちょうえいかく)があり、仙台の城下を一望できた。ほかに懸造のあった城は福山城本丸御殿御風呂屋、苗木城天守・二の丸御殿だけであり、1639年(寛永16年)の二の丸御殿の完成後は本丸が使われることは少なかった。本丸御殿の資料については江戸時代に書かれた「仙台城及び江戸上屋敷主要建物姿絵図」と言う立面図や平面図、屏風に仕立てられた障壁画が残っている。

仙台城は2003年(平成15年)に国史跡となっているが、2012年(平成24年)に本丸跡の一部が国史跡に追加指定された[4]

本丸北東部に位置する艮櫓(うしとらやぐら)を木造復元する計画があったが、石垣保存問題と国の史跡指定地であることなどを理由に2003年に中止となった。

本丸に自家用車や観光バスなどで来た場合は裏側にある埋門(うづみもん)跡から入ることになる。

西の丸

現在では宮城縣護國神社がある。

二の丸

城下町から見た二の丸

二代藩主伊達忠宗により造営。1638年(寛永15年)5月4日着工され、翌1639年(寛永16年)12月に落成。以後明治に至るまで藩政の中心であった。二の丸の正門である大手門を入りその奥の詰門を抜けると、藩主が住む御殿、能舞台、庭園などがあった。二の丸の規模は東西310メートル、南北200メートル。

明治に至り、1869年(明治2年)に勤政庁が置かれ、1871年(明治4年)に東北鎮台(後の陸軍第二師団)が置かれた。1882年(明治15年)9月7日、追廻で行われた西南の役(西南戦争)戦没者招魂祭の花火が不発のまま落ち、その火災により、表舞台楽屋以外の二の丸遺構はすべて焼失。残った表舞台楽屋も戦災で焼失。現在は東北大学川内キャンパス(川内南キャンパス)となり、文系学部(文学部、経済学部、法学部、教育学部)が入る。

仙台城は2003年(平成15年)に国史跡となっているが、二の丸についても2010年(平成22年)に一部が国史跡に追加指定されている[4]

大手門

大手門(1938年(昭和13年)撮影)

楼門型式の櫓門で、菊紋をかたどった飾り金具などが施されていた。名護屋城の大手門を移築したものと伝えられているが、実際は名護屋城大手門を模したという意味の「写した」を「移した」と勘違いしたものではないかともいわれている[12]。大手門は二の丸の正門であった。1931年(昭和6年)に脇櫓と共に国宝に指定されたが、仙台空襲により焼失。大手門の資料に関しては昭和実測図や外観を撮影した古写真が残っている。

脇櫓

大手門隅櫓ともいう。大手門と共に1931年(昭和6年)国宝に指定されたが、大手門と共に戦災により焼失。1967年(昭和42年)に民間の寄付により外観復元され、現在は唯一復元された建造物である。しかし令和2年の調査で焼失前の物とは形状が異なることが分かり大手門の再建と一体的に焼失前の形に再建されることになった[13][14]。脇櫓の資料に関しては大手門・巽門と同様に昭和実測図や外観を撮影した古写真が残っている。

三の丸

仙台藩の米蔵があり、二の丸造営時に造られたと考えられている。正確な造営時期は不明であるが、古くは東の丸とも呼ばれていた。現在は仙台市博物館がある。

石垣

本丸 石垣

切込接と呼ばれる積み方を用い、隅石表面は、「江戸切」と呼ばれる技法によって加工されている。本丸石垣の修復工事(1997年(平成9年)から2004年(平成16年))の際の発掘調査によって、時代の異なる2つの石垣が現石垣中から見つかっており、過去に地震によって崩落したことが確認された。最も古い石垣は政宗の時代のもので加工しない石を使った野面積であった。積み直しでは元通りにするのではなく新しい技法を採用してより頑丈な石垣を目指していたと思われる。

政宗が死際に「この城は泰平の世には向かん。わしが死んだら修築しろ」と家臣や忠宗に言い残したという逸話が残っている。

考古資料

城郭遺構

現在、仙台城址は青葉山公園として整備されているが、二の丸が東北大学川内キャンパス、三の丸が仙台市博物館としてそれぞれ利用されている。本丸から三の丸にかけて石垣および土塁が現存し、三の丸には長沼および五色沼と呼ばれる水堀が残る。馬場の跡地については川内追廻を参照。

太鼓塀については明治以降のものか江戸期のものか判断が分かれるところである。

城内に残された建造物は第二次世界大戦頃までにすべてが失われたが、寅の門が宮城県知事公館の門(県指定有形文化財)として移築され現存する。この門は以前は二階建ての楼門形式であった。また、本丸搦手の辰ノ口門が満興寺山門として、山門が孝勝寺山門として[15]、二の丸勘定所の板倉と伝えられる建物(県指定有形文化財)が宮城野区岩切の民家[16]に移築現存する。

このほか、勾当台地区にあった藩校養賢堂正門が、泰心院山門(市指定有形文化財)として移築され現存する。

古代遺構

仙台城の遺構ではないが本丸跡や二の丸跡で実施された発掘調査で、縄文土器、石器、弥生土器が出土している[4]。また、発掘調査で二の丸跡西側には平安時代に窯があった可能性が指摘されている[4]

復元

大手門脇櫓再建

1964年(昭和39年)に、民間の寄付を募って大手門脇櫓が復元された。これが江戸時代の姿を示す唯一の建築である。向かいに石垣があるため、脇櫓と石垣の距離をもって往時の大手門の大きさをしのぶことができる。脇櫓を復元し仙台市に寄付した期成会は、次に大手門の復元を計画したが、資金と用地の問題があって果たせなかったがためである。2036年迄に消失前の昭和実測図、外観を撮影した古写真があるため、老朽化した大手門脇櫓を大手門と共に木造復元される予定である。

本丸北壁石垣修復

1990年代になると本丸の石垣崩落のおそれが出てきたため、石垣の状況をモニターするセンサーが取り付けられた。その後、1998年度から2003年度までの工期で石垣の解体修理が実施された。この修理は、元の石材一つ一つに番号を付け、可能な限り保存を優先して行われた。この過程で、3期にわたる石垣の存在が確認され、過去に数度の修復が行われていたことが分かった。

工事終了後、本丸北東隅にあった艮櫓(うしとらやぐら)を復元する計画であったが、石垣調査によって、艮櫓は第三期石垣の上には存在しなかったことが判明した。第一期と第二期の石垣は第三期の石垣より後ろにひっこんだ位置にあるため、復元しても櫓が下から見えなくなり、景観も合わない。さらに、櫓の基礎工事が貴重な遺跡である石垣の基礎部分を破壊することになるという懸念も出てきた。城跡の市有地部分が国の史跡に指定されたことに伴い、史跡保存の意見が優勢となり、艮櫓復元は着工前の2003年5月に中止になった。

石垣修理の成果もあってか、東日本大震災とその余震においても、本丸の巨大な石垣は、大きな被害を受けることはなかった。真下の県道は普段から交通量が多く、震災当時は交通が混乱し多くの車両や人で渋滞していたが、繰り返す余震にもかかわらず人的被害は出なかった。

本丸御殿の中心的な建物だった「大広間」の発掘調査が行われ、その成果を元に建物規模や部屋割りが地面に表示された。大広間は430畳もある大型の御殿建築である。大広間は取り外しのできる障壁画が現存しているほか、平面図と立面図もあるので復元の期待が持てる建物である。

大手門復元計画

仙台市教育委員会は消失前の昭和実測図や外観を撮影した古写真が残っているため、2021年度から2038年度までの整備基本計画で大手門の復元を計画している[17]。2021年度から基礎調査が行われる[17]。昭和初期の写真と照合すると現在の再建された隅櫓と形状が異なることが分かり大手門の再建と一体的に再建されることになった[13][14]

現在の景観

現在、本丸は公園として整備され、石垣の端部には危険防止用の柵が設置されているのみであるため、仙台市街の景観を広範囲に見渡すことが出来る。同時に、当時の藩都を囲む神社仏閣、河川を合わせた防衛施設の連携を垣間見ることも可能である。

本丸の伊達政宗騎馬像付近の展望台からの眺望。仙台市都心部を西南西方向から眺めている。遠くには仙台湾も見ることができる。

仙台城跡の土地の権利関係は複雑であり、仙台城跡のうち仙台市が所有している区画はごく一部である。戦前の経緯から宮城県護国神社国立大学法人東北大学が所有している区画が多く、現在でも本丸と二の丸の中に境界が存在している。本丸の一部と、仙台市博物館がある三の丸および周辺地区が仙台市管理の青葉山公園である。二の丸跡地は現在は東北大学の敷地となっているが、このうち東側の東屋付近とロータリーの北東部分は同大学ではなく仙台市が所有する青葉山公園の飛び地となっている。仙台七夕祭りの花火大会の際には、二の丸の東北大学川内ホールの前庭が観覧場の一つになっている。目の前の河川敷で打ち上げられる迫力のある花火を、多くの祭り客が敷物を敷いて楽しみ、屋台で賑わう。

本丸跡地に建つ宮城縣護國神社拝殿

伊達政宗の騎馬像

復元された2代目の伊達政宗騎馬像。
初代騎馬像が胸像となったもの。

本丸跡に伊達政宗の騎馬像がある。現在の像は2代目である。

1935年(昭和10年)5月、政宗没後300年を記念して小室達による伊達政宗騎馬像が本丸に建立された[4]。しかし1944年(昭和19年)、金属類回収令により政宗騎馬像は撤去された。騎馬像は溶解されるはずだったが、1945年(昭和20年)11月に郷土史家が塩竈市の金属集積所でこれを発見した。その時、郷土史家は像を買い戻す資金を持ち合わせず、翌年9月に工面した1700円で像を購入して青葉神社へ奉納した。この時点で騎馬像だったものは胸像のような状態になっていた[18]。仙台市博物館が三の丸にて開館するにあたりこの像が青葉神社から博物館へ寄贈された。以後、胸像として1986年(昭和41年)から2023年(令和5年)4月まで仙台市博物館中庭に設置された。2023年4月に仙臺緑彩館に移転した[19]

戦争中に撤去された像に替わり、本丸跡ではコンクリート製の伊達政宗立像が1953年(昭和28年)に建立された[18]。1962年(昭和37年)頃から騎馬像の再建を望む声が高まり、さらに騎馬像の原型が柴田町で保管されていることも判明した。このような状況で仙台市観光協会が騎馬像の復元事業を決定し、1964年(昭和39年)に伊達政宗騎馬像が再建された[4][18]。コンクリート製の立ち像は岩出山町(現大崎市)の岩出山城に移設された。

交通アクセス

仙台城跡地(本丸)の所在地は宮城県仙台市青葉区川内1番地。仙台市営バスのバス停留所「仙台城跡」、「仙台城跡南」がある。仙台駅のバス乗り場から「仙台城跡」停留所まで観光用路線バスるーぷる仙台で約23分の所要時間である[20]。るーぷる仙台は時計回りで市内の観光地を通っているので、仙台城跡から仙台駅前へ向かうと約44分かかる。るーぷる仙台を青葉山駅で下車し仙台市地下鉄東西線を利用するなどのルートの方が仙台駅へ早く戻れる。

仙台市地下鉄東西線の国際センター駅から徒歩で本丸へ向かう場合、所要時間は約25分である[20]

また、宮城縣護國神社が管理する有料駐車場がある[21]

参考画像

脚注

  1. ^ 仙台城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  2. ^ a b c 『仙台市史』特別編7 城館、248-249頁。
  3. ^ "奥州仙台城絵図"(仙台市博物館収蔵資料データベース)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 仙台城跡関連年表”. 仙台市. 2020年12月2日閲覧。
  5. ^ 小林清治「仙台築城の歴史的意義」『伊達政宗の研究』(吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-02875-2 P202-213
  6. ^ 五十公野裕也『いま訪ねるべき 日本の鉱山跡30』イカロス出版、2024年8月30日、33頁。ISBN 978-4-8022-1484-1 
  7. ^ a b c d e f g h i 『史跡仙台城跡保存活用計画』20-21頁。
  8. ^ "知事公館正門(県指定有形文化財)"(宮城県)2026年2月14日閲覧。
  9. ^ "戦争の被災者や引揚者が移り住んだ「追廻住宅」最後の1軒解体「新たな交流拠点に」仙台"(TBC NEWS DIG)東北放送2023年2月28日付記事。2026年2月14日閲覧。
  10. ^ http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110319t13055.htm
  11. ^ a b INC, SANKEI DIGITAL (2020年5月10日). “【千田嘉博のお城探偵】伊達政宗の仙台城 強き独眼竜の志(2/2ページ)”. 産経ニュース. 2022年9月24日閲覧。
  12. ^ 西ヶ谷恭弘著『ポケット図鑑 日本の城』主婦の友社、1995年
  13. ^ a b 仙台城・脇櫓も建て替えへ 大手門と一体で復元
  14. ^ a b “仙台城”大手門復元 仙台市は「脇櫓」を解体し一体整備 「脇櫓」屋根が史実とは異なる形状と判明
  15. ^ 光明山孝勝寺|宮城県仙台市”. 光明山孝勝寺|宮城県仙台市. 2021年3月11日閲覧。
  16. ^ 旧仙台城板倉 - 仙台市の指定・登録文化財”. www.sendai-c.ed.jp. 2021年3月11日閲覧。
  17. ^ a b “市道仙台城跡線の廃止を検討へ 大手門復元計画”. 河北新報 (河北新報). (2020年12月2日). https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202012/20201202_11017.html 2020年12月2日閲覧。 
  18. ^ a b c "万世に至るまで-伊達政宗騎騎馬像を知る-"(仙台メディアテーク)2026年2月14日閲覧。
  19. ^ 伊達政宗の胸像、「仙臺緑彩館」へ引っ越し 26日にお披露目”. 河北新報. 2023年4月14日閲覧。
  20. ^ a b "仙台城跡へのアクセス"(仙台市)2026年2月14日閲覧。
  21. ^ "有料駐車場のご案内"(青葉城本丸会館)2026年2月14日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク





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