鉢形城
鉢形城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)
鉢形城 鉢形城の位置 天正18年(1590年)5月14日から6月14日まで続いた。 鉢形城攻撃軍の編成 約35,000人前田利家 18,000人 上杉景勝 10,000人 真田昌幸 3,000人 (大道寺政繁)先に松井田城開城で降伏し、道案内となっていた。 浅野長政 3,000人(小田原陣から来た援軍) 木村重茲 2,300人(小田原陣から来た援軍) 本多忠勝、島田利正、鳥居元忠(徳川氏家臣。小田原陣から来た援軍) 鉢形城守備軍(藤田氏邦(北条氏邦)) 約3,000人 鉢形城城主の氏邦は北条当主一族であり、政治にも軍事にも功のある人物であった。小田原城籠城策に反対して氏政らと意見が対立した。氏邦は籠城より先に積極的な野戦迎撃を説き、駿河国に打って出ること、平野部での大規模な野戦を主張したが容れられなかった。このため、小田原ではなく自城に帰還して籠城した。後詰めもなく、彼我の差は10倍以上であったが、家臣らと籠城戦を戦った。秀吉は鉢形城の動静を気にしていたらしく、小田原陣から分離した援軍の浅野軍に対し、北方軍と合流して早急に鉢形城を攻略するよう、何度も何度も指示を出している。 6月13日、忍城攻略を行っていた北方軍と浅野軍が分かれ、鉢形城の本格攻略に向かった。浅野軍であった本多忠勝が近隣の山に大砲を運び上げ、城に向かって打ち込み始めると被害は甚大となり、城兵の助命と引き換えに守将の氏邦は開城した。鉢形城攻将の前田利家が氏邦の助命嘆願を行い、氏邦は剃髪することで一命を許された。戦後、身柄は前田の預かりとなり、前田領内の能登国津向(現在の石川県七尾市)に知行1000石を得た。 浅野長政と真田昌幸は忍城へ向かい、包囲軍に戻った。
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