南方からの加勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)
節内の全座標を示した地図 - OSM節内の全座標を出力 - KML 表示 一方、東海道方面から進出した主軍は、圧倒的多数で小田原城を完全包囲していた。秀吉は包囲勢から兵力を抽出し、北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃させた。浅野長政に率いられた2万を越えるこの軍は前出の相模国玉縄城(4月21日)や佐江戸城、江戸城(4月27日)、と進軍した。4月28日、秀吉は浅野隊に対し、河越城方面で北方隊と合流し、鉢形城を攻略するように命じたが、浅野隊は翌29日に葛西城(4月29日頃)。を陥落させると、そのまま下総国方面に侵入した。 浅野長政や木村重茲、徳川家臣(本多忠勝・鳥居元忠・内藤家長・榊原康政・戸田忠次・酒井家次)、玉縄城の降将であり道案内および開城説得役の北条氏勝らで構成された下総方面軍は、小金城、守谷城、岡見氏の牛久城と東林寺城、土岐原氏の竜ヶ崎城、木原城、江戸崎城(5月5日)、原氏の拠点の臼井城(5月10日)、伝統ある武士団千葉氏の本拠であった本佐倉城(5月18日)、成東城、上総酒井氏両家の東金城と土気城(5月10日迄)、上総武田氏の真里谷城庁南城、椎津城、坂田城、小見川城、北生実城(北小弓城)、万喜城、国分胤政の大崎城(矢作城)、簗田晴助・簗田貞助の水海城など、諸城を次々と開城させた。 このあまりの急進撃に、浅野に対して秀吉からは敵である房総諸将の不甲斐無さを詰った上で「房総諸城の攻略は(あまりに簡単過ぎて)戦功として認めない」とする書状が送られたほどであった。ただし5月12日時点でも秀吉は浅野に対し、北方の鉢形城攻略軍に合流するよう指示を出していたため、相当な命令違反行動であり、5月20日には秀吉から浅野・木村両名へ、鉢形城へ向かわない件について長文の詰問状が送られ叱責されている。つまらない城を二万の軍勢で請け取るのではなく、降城は二、三百人の使いを出して請け取ればいいから、早急に鉢形城に包囲軍に加われ、という旨が書かれている。 先の書状の20日時点での浅野らは、命に従い急ぎ軍を返して武蔵国方面に侵攻しており、寿能城や後述する岩付城を攻め、5月21日時点で岩付の二の丸・三の丸を落とした、と秀吉に知らせている。秀吉は「一人残らず討ち果たせ」「女子供は全て連れてこい」と命じたが、浅野は開城条件として城兵の助命をしてしまっており、25日にこの件での再度叱責と、急いで鉢形城へ向かうように、との指示を受けている。ただし浅野は降伏開城処理のため、6月1日迄岩付城に留まっている。 この軍は6月8日には北方軍の前田利家らと合流し、忍城攻めに加わったのち、前田や上杉らとやっと鉢形城の攻略に向かっている。 これら房総・武蔵の諸城の異常ともいえる速さでの陥落の理由は、北方の諸城と同じである。各城が本来動員出来得る兵力のほとんどは、小田原城の籠城戦のために動員されており、当主や城主自身も小田原城籠城に参加していたために、どの城も最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである。例を挙げると、下総の小金城の高城氏の動員軍事力は豊臣側が作成した『関東八州諸城覚書』には700騎と記されているが、実際には城主の高城胤則ら大半が小田原城に籠城し、小金城が包囲された時に残されていた守備軍は200騎と軽卒300名であったとされる。原氏の拠点のひとつ(北)生実城が攻略された際、城将の原胤栄が酒井家次に討ち取られたとする説がある。当主を失った原氏はしかし、嫡男の原胤義が小田原城に詰めていたため、原邦房を名代に立てて臼井城に立て籠もったが、上述の通り開城している。本佐倉城の場合、北条氏からの養子である千葉直重も本来の血統の当主の千葉重胤も、共に小田原城に詰めていて留守であった。北方戦線の箕輪城の場合、北条氏としては決して失いたくない重要拠点ではあったが、豊臣方の大軍勢と周辺諸城が続々と陥落していく中、その状況を見た城兵によるクーデターが発生し、主将の垪和氏が追放されて無血開城している。ただし決して北条方が弱かったわけではなく、ある程度の兵士が確保されていた鉢形城や館林城、主将が指揮を執った前出の松井田城、東海道方面でも城主が守将となった伊豆方面の韮山城などは豊臣方も攻め倦み、それらの城を攻略する際は豊臣方にも相応の損失があり、進撃の速度は大幅に落ちている。 また、山中城を脱出し、玉縄城で先に降伏した北条氏勝や重臣である大道寺政繁らの、元北条方の諸将による降伏開城の説得交渉に応じた城もあり、さらに彼ら降将による各城の攻略時の案内、具体的に言えば城の弱点の提供という情報的有利さも影響している。有名な話としては、八王子城攻略の際に、降将から進言された裏門からの攻略を行った件が挙げられる。
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