館林城
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館林城(たてばやしじょう)は、群馬県館林市城町3(上野国邑楽郡館林)[1]にあった戦国時代から江戸時代の日本の城。尾曳城(おびきじょう)ともいう。館林市指定史跡[2]。
- ^ 「角川日本地名大辞典 10 群馬県」
- ^ 「指定文化財一覧」館林市
- ^ 館林市史編さん委員会 2015, pp. 314–315.
- ^ 館林市史編さん委員会 2015, pp. 293–294.
- ^ 館林市史編さん委員会 2015, p. 325.
- ^ 館林市史編さん委員会 2015, p. 343.
- ^ 館林市史編さん委員会 2015, pp. 364–365.
- ^ 館林市史編さん委員会 2015, pp. 388–389.
- ^ 館林市史編さん委員会 2016, p. 8.
- ^ 享保年間における館林騒動川島勘左衛門、『館林郷土叢書. 第4輯』館林郷土史談館 編 (館林図書館, 1940)
館林城
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館林城攻撃軍の編成石田三成 大谷吉継 長束正家 鈴木重朝 北条氏勝 関東諸侯佐竹義宣 宇都宮国綱 多賀谷重経 水谷勝俊 結城晴朝 佐野房綱 大田原晴清 忍・館林を攻略するよう命じられた石田三成・長束正家らは、下野方面の関東諸侯と合流し、館林城を攻めた。5月29日に館林城を攻略し、忍城の攻略に移動した。 この落城の際、次のような話が伝わる。館林城は築城時の狐伝説が残る城であるが、この城は沼地に囲まれた天然の要害であったため、数日間をかけて攻めるも効果が少なかった。このため豊臣方は近隣の山から木材を伐採し、一日をかけて城の周辺に木道を構築して城攻めの道を作った。翌朝から本格的な攻勢を行うつもりであったが、朝になるとこの木道はひとつ残らず消え失せていた。警備の兵も誰も、異常に気がつかなかった。
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