城の周辺
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若林の城下町は、地図上では、仙台の城下町が南東に張り出した拡張地のように見える。仙台と若林は城下町を接するが、どちらも伊達政宗が作った町なのに、町割り(土地区画)の基軸線がずれている。その線は少し離れた養種園遺跡で発見された15世紀末以降の建物・溝跡の傾きと一致するので、戦国時代の町割り・道路を踏襲したものではないかとされている。若林城と同じ軸線を持つ道は、「北は連坊小路、西は荒町、南西は南材木町・河原町、南東は若林城南東方、東は遠見塚古墳の西、北東は中倉付近まで」 確認できる。しかしその全域が開発されたのではなく、部分的に北限が七郷堀付近になる可能性が指摘されている。 城の北300メートルほどの位置に、若林城の出曲輪があったと伝えられている。城郭的施設はなかったようだが、政宗の時代に何かの施設が置かれたらしい。廃城後、家臣の屋敷地になったが、後に小泉屋敷という藩主の別荘地が置かれた。 若林には西曲輪(にしくるわ)もあり、ここで政宗は幕府役人を接待した。家臣と能や茶会を愉しんだ。これについては場所も不明で、現存の土塁・堀の線だけで割り切れない構造があったようにも思われる。 若林城の南方を流れる広瀬川には、長町橋(現代の広瀬橋)の隣にもう一つ城に通じる「大橋」が架けられた。若林城が廃止されたときに城下の一部は仙台にくみこまれたが、大部分は水田と畑になり、20世紀に市街地に変わった。
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城の周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 13:56 UTC 版)
城跡の西には高寺伝承で有名な高寺山の丘陵が連なり、その麓には鎌倉時代造立の千手観音像(国重文)を本尊とする恵隆寺、平安時代初期造立といわれている薬師如来像(国重文)を本尊とする上宇内薬師堂(会津五薬師の一つ)がある。城跡の東側は会津盆地の田園風景が広がり、およそ約2キロメートルの地に亀ヶ森・鎮守森古墳がある。また、城の周辺には前記2古墳のほかにも多数の古墳が確認されており、前記の寺院や陣ヶ峰城の存在を照らし合わせると、中世初期に佐原義連一族が入部するまでは陣ヶ峰城一帯が古代会津の中心であった可能性も考えられる。
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