城の位置と性質
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/08 15:36 UTC 版)
真里谷城址は房総丘陵のほぼ中央、小櫃川支流の武田川上流域にあり、JR馬来田駅より南東方向へ約5キロメートルほどの位置に存在する。城址周辺は、山々が連なっておりまさに天然の要塞といった様子が伺える。しかしその場所は山間部にあって、支配対象となりうる集落を形成するような平坦な土地が無く、農作物の生産拠点となる小櫃川や養老川流域からも外れており、その上交通の要所を抑えておらず、鎌倉街道など街道から外れた場所である事が確認できる。 そのような辺鄙な場所に真里谷城を築城した理由として、築城当時の武田氏の状況によるものと考えられている。武田氏は敵対する千葉氏とは異なり、古くからこの土地を支配していたのではなく外部からの侵略者という立場があり、外部だけでなく地元の豪族の動向にも気を配る必要がある。その事から常に内外からの襲撃に備える必要性があり、転じて敵の侵攻にも優位に働いてしまう交通の要所に拠点を置く事よりも敢えて平野部から少し奥にある山間部に拠点を置き、外部からの侵攻に備えたのだろうと思われる。また、この場所は小櫃川と養老川の両川流域の中間地点で小櫃川流域には約3キロメートル、養老川流域には約4.4キロメートルの位置にあり、必要に応じてこれら生産拠点へに進出が可能である。また、武田氏のもう一つの拠点である庁南城とは約12キロメートルの距離である。 上総武田氏は上総国のほぼ中間地点に当たるこの地に拠点を置き、支城との連携を密にする事で不測の事態にいつでも対応できるような領土経営を行ったと考えられる。 ただし、この真里谷城が武田氏の拠点であった真里谷城とは別の城であるとする見解がある。その説によれば、『快元僧都記』に登場する真里谷氏の内紛の際に信隆派が築かれた「新地」の城であるとして、より小櫃川に近い要害城を武田氏の真里谷城に比定する説がある。
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