廃城後
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城跡は大口公園(おおぐちこうえん)となった。公園の名は初代豊橋市長であり衆議院議員であった大口喜六(1870年〈明治3年〉 - 1957年)にちなむ。
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廃城後
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「徳島中央公園」も参照 1873年(明治6年)に発布された廃城令により存城処分となり、1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去された。1905年(明治38年)の日露戦争の戦勝を記念して、城跡の大半が1906年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、1910年一般に開放された。 ただし、旧御花畠は幕末に練兵場、1889年より徳島監獄署(現 徳島刑務所)が置かれ、公園からは除かれた。その後、公園の範囲は多少変動し、現在はかつての城内のうち御花畠の西半分(現 合同庁舎・民有地)、西の丸の大半(現 内町小学校)、三木郭の南部(現 文化センター)が公園に含まれない。 1941年(昭和16年)には表御殿庭園が国の名勝に指定された。明治以降の城地は石垣と堀、庭園、鷲之門のみが残った。 1945年(昭和20年)7月4日の徳島大空襲により、城跡内のほとんどの建物と共に唯一現存していた鷲之門も焼失した。 1989年(平成元年)、鷲之門が復元された。 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(76番)に選定された。
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廃城後
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元禄時代に、城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて桃山と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として桃山城と呼ばれる由来となった。なお、開墾にたずさわった一族の末裔は、吉村酒造蔵元の吉村家と伝えられている。 伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたらしいが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられている。2009年2月20日、宮内庁の許可を得た日本考古学協会によって伏見桃山陵の本格的な調査が行われ、敷地内に4–5メートルの盛り土がなされていることが判明したが、城郭を記した歴史的文献には存在しないものであることから、未発見の古墳ではないかともいわれている。 また、伏見城花畑跡は1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が6億円(当時の金額)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られた。2003年1月、同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園したが、模擬天守は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与 されたほか、敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備された。ただし、模擬天守については耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっており、バリアフリー対応などを含め改修に数億円かかるとされることから2012年10月時点でも具体的な活用予定は無い。2007年10月、映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため東映が約1億円を負担し、望楼の下に虎の装飾がなされたほか、鯱を金色に塗り替えるなど大坂城に見立てた改修がなされ、これらの装飾は撮影終了後も同年内はそのままとなっていた 2014年(平成26年)9月には復興天守築城50周年で記念行事が開催された。 模擬天守と小天守 模擬天守 小天守 模擬大手門
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廃城後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 23:22 UTC 版)
以後は再度城郭として用いられることはなく、江戸期には敷地の大半は開拓されて畑地や住居、溜池などに転用された。明治以後は更に道路や鉄道が建設され、開発によってその大半が失われている。現在でも周辺の地名にはかつて城郭が在ったことに関連する地名が見られるものの、往時の遺構は半ば雑木林と化したごく一部しか残存せず、近年になって発掘調査が行われた他は所沢市教育委員会により城郭跡であることを示す碑と案内板が設置されたのみであった。 かろうじて残存していた城郭跡の敷地のうち、北西部は私有地として畑地等に利用され、南東部は至近の県道55号線の交差点に「山口城跡前」の名称がつけられたのみで長年に渡って放置されていたが、平成12年(2000年)になり商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画もあったものの、開発反対と遺構の保存を求める運動が起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることになった。現在は城郭跡であった部分の殆どは整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀のごく一部分が保存されている。
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廃城後
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城は、塩谷氏の改易とともに名目的には廃城となったが、城そのものは、その後、長井を支配する庄屋となった渡辺氏の屋敷としてそのまま存続し続けた。渡辺氏は長井一の実力者として、実質、長井地区を支配し続けたが、元和2年(1616年)、時の渡辺氏の当主である渡辺源右ェ門の権勢に反発した石下弥兵衛を始めとする同志たちが渡辺氏の支配から脱するために独立し、長井は上下の2村に分裂する。しかし、この分割は、地域を分割したものではなく、渡辺氏、石下氏それぞれを支持する人々による対人分割で行われたため、上下長井村の村民が混在するという複雑且つ不自然な支配となり、この状態は、明治2年(1869年)1月20日に上下長井村が合併されるまで続いた。 長井館は、昭和に至るまで渡辺氏の館として存続し続けたが、第二次世界大戦で渡辺氏の当主が病没し後継者がなく渡辺氏が断絶すると、屋敷は廃され、土地は分割されて民家や小学校などの用地となり、その遺構は完全に破壊されて消滅した。唯一、昭和58年(1983年)9月に建立された石碑が、その名残を残すのみである。
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廃城後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/20 14:15 UTC 版)
扇谷上杉勢を北に追いやった北条方にとって、多摩川左岸の深大寺城は小田原城の防衛には不要になった。その結果、城が手付かずで残り、城郭史上、貴重な遺構になっている。例えば、深大寺城と同形の片倉城(八王子)は扇谷上杉氏が北条氏に備えて築いたが、北条氏の手で改修されて北条氏の城という位置づけになっている。天文初期、敵兵を空濠に誘導して矢で殲滅する「扇谷上杉氏の城」は、「平虎口」「横矢が弱い」「切岸が緩い」など戦国期における築城技術の進化途上にある。北条氏が合戦を通して扇谷上杉氏などの城郭を改修し、北条流築城技術を完成させているのは疑う余地はないといわれる。 平成10年(1998年)に東京都指定史跡となり、平成19年(2007年)7月26日付けで国の史跡に指定された。
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