吉村家
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2023年移転の現店舗
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種類 | 特例有限会社 |
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本社所在地 | ![]() 〒220-0073 神奈川県横浜市西区岡野1丁目6番4号 |
設立 | 1974年(昭和49年)[1] |
業種 | 小売業 |
法人番号 | 8020002010979 |
事業内容 | ラーメン店 |
代表者 | 代表取締役会長 吉村実 代表取締役社長 吉村政和 |
外部リンク | ieke1 |


吉村家(よしむらや)は、神奈川県横浜市西区岡野にあるラーメン店。
家系ラーメンには、吉村家から正式に暖簾分けされた直系店舗のほか、暖簾分けされた店からの暖簾分け、さらに独自に模倣または参考にした「インスパイア系」の店も存在する[3]。
概要
吉村家創業者である吉村実は1948年(昭和23年)6月に山形県で生まれ、横浜市で育った[1]。ラーメン店開業前は長距離トラックの運転手として主に関東〜九州間での配送を担当しており、九州では豚骨ラーメンを、関東では鶏ガラ醤油ラーメンをよく食べていた。そして、ふとしたある日、「九州の豚骨ラーメンと関東の鶏ガラ醤油ラーメンをブレンドしたラーメンを出してみてはどうだろうか?」と思いついた。そこで、ラーメン店の創業を決意し、京浜トラックターミナルにあったラーメンショップで半年間働きノウハウを身につけた[4]。
1974年(昭和49年)9月、横浜市磯子区杉田の新杉田駅付近、国道16号に並行する磯子産業道路沿いにラーメン店「吉村家」を開店した[2]。約10坪の店で、家賃は月8万円[1]。「貧乏人と金持ちに平等なのは時間だけ」と考え、他人の倍働こうと決意して1日18時間仕事をして、家に帰らず店にゴザを敷いて寝た[1]。やがて行列ができる人気店となり、25年経った[1]1999年(平成11年)9月に横浜市西区南幸(横浜駅西口)に移転した[2]。
2023年(令和5年)3月に横浜市西区岡野の自社ビルに移転[5]。移転のきっかけは、旧店舗の賃貸契約(25年契約)が切れ、契約更新に当たって「従来の3倍の賃料」を提示されたことだといい、ちょうど同時期に新型コロナ禍の影響で近隣の土地が売却される話があったため、その土地を購入して移転することを決めた[6]。
麺は酒井製麺の太麺を使用し、分厚くスライスしたチャーシュー、丼からはみ出すほどの大きな海苔3枚、鶏脂を使うことによる幾分黄色いスープ、青み野菜の具として乗せられるホウレンソウが特徴[2]。供される醤油豚骨スープには、1日分として豚骨1トン、鶏ガラ500羽分が使用されている[2]。焼豚の使用量は1日50キログラム以上[2]。
メニューは、ラーメンとトッピング各種のみであるが、麺の固さ、スープの脂の量、味の濃さを客が自由に指定できることに加え、テーブルの上にニンニク、豆板醤、コショウといった調味料が置かれており、客が好みに合わせて使用できるなど、選択肢の豊富さが特徴となっている[2]。
1日に約1500杯のラーメンを売り上げる[2]。人気店となって長いが、吉村は「(入店待ちの行列が)いつ消えるのが怖い」とインタビューで語っている[1]。吉村家を経営する傍ら、不動産取引と株式取引で失敗して会社を二つ潰したが、ラーメンのおかげで立ち直れたと振り返っている[1]。
「弟子」取りと直系店舗
吉村家ホームページ、または吉村家店頭にも「弟子入り募集」の告知がなされている。吉村によると、2020年代初頭までに300人以上が弟子入りしており、中学校を正式に卒業できなかった者や、東京大学出身者のようなエリートもいた。中には元サラリーマンだったものの、リストラに遭い巨額の借金を抱えた者や、過去に犯罪を起こして道を一度踏み外して真面目になろうと決心した人間もいる[1]。
吉村は元祖、そして日本一の家系ラーメンであり続けるために、ラーメン一杯に対する情熱が非常に熱く、例え材料の仕入れ値が高くなっても決して「妥協」という言葉は許さず、常に「最高の一杯」を作ろうと考えていた。
そのため、厨房にいた頃は弟子達がたとえ男性であろうと女性であろうと一切容赦はせず、常に激しい口調で、そして時には手を出すこともあり、非常に厳しく弟子達を指導していた。
直系店舗は単に吉村家にて修行して独立しただけでは認められず、独立後に大行列ができるほどの人気店に、そして立派に経営ができている店舗のみが認められる。もちろん、調理時の手順や作法、材料まで吉村家と100%完璧な店舗しか直系店舗を名乗ることが許されない。
修行を経て暖簾分けを許された直系店舗は以下の通り。
直系店舗
- 吉村家(神奈川県横浜市西区岡野) :1974年(昭和49年)9月開業。店主は吉村実の長男、吉村 政和(よしむら まさかず)。家系ラーメン発祥のお店ではあるが、現在は息子の吉村政和が店主、そして家系ラーメンの生みの親である父の吉村実が会長という立場であるため(要は今は吉村実本人ではなく、息子が厨房に立っているため)、原点でありながらも改めて息子自身が厳しい修行を経て「家系皆伝」の称号を獲得した。
- 杉田家(神奈川県横浜市磯子区新杉田町):1999年(平成11年)9月開業。店主は津村 進(つむら すすむ)。吉村実の一番弟子で、杉田に店舗があった頃の吉村家で修行をした後に独立した。吉村家直系1号店[7]。2011年(平成13年)1月に津村の出身地でもある千葉県千葉市に杉田家千葉裕光店を、2022年(令和4年)3月に同じく千葉市に杉田家千葉駅前店を出店した(千葉裕光店、千葉駅前店の店主は津村 進の長男である津村 文博〈つむら ふみひろ〉と長女の津村 裕里〈つむら ゆり〉)。
- はじめ家(富山県魚津市吉島):2001年(平成13年)3月開業。店主は小沢 肇(おざわ はじめ)。
- 高松家(香川県高松市屋島西町):2005年(平成17年)9月開業。
- 厚木家(神奈川県厚木市妻田東) :2005年(平成17年)11月開業。店主は吉村実の次男、吉村 政紀(よしむら まさのり)。
- 上越家(新潟県上越市下源入):2009年(平成21年)7月開業。店主は石平 哲也(いしひら てつや)。
- 末廣家(神奈川県横浜市神奈川区六角橋):2013年(平成25年)7月開業。店主は末廣 良信(すえひろ よしのぶ)。
- 環2家(神奈川県横浜市港南区下永谷):2015年(平成27年)8月に一時閉店後、再開時に経営者が変わったためはずれていたが、2021年(令和3年)5月に直系店舗へ昇格[8]。直系店昇格前の同年3月31日には、東京都大田区蒲田に2号店がオープンした。
- 内田家(福岡県福岡市博多区博多駅前):2020年(令和2年)4月開業。店主は内田 陽介(うちだ ようすけ)。吉村家直系では最新店。
直系店の店舗やカウンターには吉村実から手渡された「家系皆伝」の称号を示す証書が飾られている。
過去の直系店舗
以前に吉村家の直系であった店舗を記す。
- まつり家(神奈川県藤沢市):2015年(平成27年)11月閉店。現在[いつ?]は店舗を弟子に譲渡し、「藤澤家」としてリニューアルして営業している。
- 横横家(横浜市金沢区六浦):2015年(平成27年)7月閉店。
- 王道家:自家製麺の使用に伴い直系を離れた。創業時は千葉県柏市で開業、2017年(平成29年)7月に茨城県取手市へ移転、2019年(令和元年)10月に再び千葉県柏市にて移転開業。なお取手市の旧店舗は「王道家本店」として現在[いつ?]も営業している。その後は王道家グループとして、「青森野呂家」「王道いしい」「近江道家」「我道家」などを出店。
出典・脚注
- ^ a b c d e f g h i j 「家系ラーメン創始者 吉村実氏に聞く/生きがい?金じゃない、仕事だ」『東京新聞』朝刊2023年1月4日(特報面)
- ^ a b c d e f g h ““家系”ラーメンの総本山「吉村家」とその弟子たち”. 日経BPビジネスイノベーター (2003年7月15日). 2015年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月17日閲覧。
- ^ インスパイア系とは?横浜家系ラーメン揚喜家公式サイト(2018年7月26日)2024年11月4日閲覧
- ^ [かながわ発]家系ラーメン(4)「吉村のための麺」40年『読売新聞』東京朝刊2014年4月27日26面(神奈川2版)
- ^ “家系ラーメンの元祖「吉村家」が移転 2階建て30席の新店舗へ”. ヨコハマ経済新聞 (2023年3月9日). 2023年4月10日閲覧。
- ^ 横浜家系ラーメン総本山「吉村家」移転 最終日の会長に密着 テレビ神奈川tvk News Link(2023年3月20日)
- ^ “「これぞ家系」、直系店第1号店の杉田家に突撃!”. はまれぽ.com (2015年11月20日). 2017年8月5日閲覧。
- ^ “「家系ニュース」家系総本山 吉村家ホームページ” (2021年5月30日). 2021年6月19日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 家系総本山 吉村家ホームページ
- 吉村家ホームページ(2012年5月2日時点のアーカイブ)
吉村家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 03:00 UTC 版)
(駿河国富士郡比奈村(現在の静岡県富士市比奈)、東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区東日暮里)、東京都三鷹市) 戦国時代の武将福島正則の家臣吉村又右衛門宣充(のぶみつ)は吉村家の始祖と言い伝えられてきた。主家没落後又右衛門は浪人になった。桑名藩主となった松平定綱は彼を寛永20年(1643年)に名目は五千石、実質は一万石で招いた。吉村又右衛門宣充は慶安3年(1650年)に没し、桑名顕本寺に葬られた。今も顕本寺に墓があり、桑名市指定史跡となっている。その後の吉村家は本家、分家の二家系とも松平家の家老として代々勤めた。 吉村昭の一族は、福島正則が広島を去り、越後の配所へ流されるとき、広島を去って富士山麓の比奈に定住したと言い伝えられてきた。ここに帰農して農耕に従事し、地方の豪族として村を治めた。長学寺所蔵の「過去帳」によれば初代は萬右衛門宗感、二代は萬右衛門理安、三代は萬右衛門久甫、四代は萬右衛門浄底、五代は萬右衛門、六代は権右衛門日儀、七代は権右衛門日持、八代は萬右衛門日宣、九代は権右衛門、十代は権右衛門、十一代は萬右衛門、十二代は権右衛門とつづく。昭の父の隆策家は三代目の久甫の家から分家したものである。久甫には浄底、重兵衛、知恵の三兄妹があった。四代目を浄底が継いだ。知恵は二代目萬右衛門の三男利左衛門日行を婿養子に迎えて分家した。この利左衛門が隆策家の初代である。その後二代目から六代目までは利左衛門を引き継いで名乗った。七代目は儀左衛門、八代目は利八、九代目は昭の父隆策である。二代目の利左衛門、六代目の利左衛門、七代目の儀左衛門は養子で六代目と七代目は比奈の叔父吉村郡一家から養子にきた。 曽祖父・儀左衛門(豆腐屋、米屋) 文政8年(1825年)生 - 慶応4年(1868年)8月没 家業の豆腐屋とともに米屋を営んでいたが、十七歳の時山で怪我をし足が不自由になった。店の前には豪農の渡辺家があり、儀左衛門はその米の取扱いをするようになった。慶応4年(1868年)8月、海辺の得意先に掛取りに出掛けた時、三人の暴漢に襲われ殺害された。吉村昭はこの曽祖父殺害の事実を調べるため静岡に出かけたが、詳細はわからなかったという。 曽祖母・えい(静岡県富士郡須津村中里、菊池氏の娘) 祖父・利八(米屋、玉子[要曖昧さ回避]屋、乾物屋、綿屋) 1903年(明治36年)2月没 利八は「其の人となり信義に厚く、商才に秀いで、苦境に処して屈せず卓論不羈の風格があった」。1903年(明治36年)2月24日、憲政本党の森田勇次郎をかついで衆議院議員の選挙に奔走していた利八は急死した。 祖母・てる(静岡県富士郡吉原町依田原、土屋豊次郎の妹) 1939年(昭和14年)4月没 父・隆策(実業家) 1891年(明治24年)2月生 - 1945年(昭和20年)12月没 吉村昭の少年時代、家は家父長と呼ばれる父親を中心に営まれた。その権威は絶対的なものだった。1901年(明治34年)4月町立沼津商業学校に入学した。あまり勉強好きではなかったようで、父利八の死後学校に行かなくなった。青少年時代の隆策は極道息子だった。母てるが甘やかして育てたせいといわれている。秘かに不動産の権利書を持ち出し、金に換え、遊興にふけった。隆策の酒と女と博打で吉村家は没落していった。「富士郡で一、二」といわれた製綿業者で、職人を三十人以上も使っていた家業は傾いた。生まれ故郷を捨てることを決意した。このとき隆策25歳だった。横須賀市若松町に綿屋を開いた。生活は貧しかった。五男敬吾が生まれて三ヵ月後に夜逃げをするように横須賀市を去り、東京府下北豊島郡日暮里町元金杉千百五番地の貸工場に落ち着いた。日暮里は田畑のなかに点々と家屋が建っている新開地だった。綿の打直しの仕事はたくさんあった。1919年(大正8年)4月、田宮惣左衛門から百二十五坪の地所を借り、住宅十一坪五合、工場三十八坪、綿機三台、電動機一台をそなえた家が新築された。「吉村製作所」の看板をかけた。1932年(昭和7年)からは日暮里町四丁目二番地で綿糸紡績業を営み、東洋商業学校を卒業した長男利男に管理させた。 母・きよじ(静岡県富士郡大宮町(現在の富士宮市宝町)、清亀次郎の長女) 母の父亀次郎は母きよじを厳しく躾た。祖父の躾は母を通して吉村昭に伝えられた。 兄 利男 1911年(明治44年)9月生 - 没 武夫(実業家・花嫁わた社長、郷土史家) 1912年(大正元年)12月生 - 英雄 1914年(大正3年)6月生 - 政司 1916年(大正5年)12月生 - 疫痢で生後八ヵ月足らずで亡くなる。 敬吾 1918年(大正7年)4月生 - 1941年(昭和16年)8月戦死。 健造 留吉 1923年(大正12年)6月生 - 1923年(大正12年)6月没。留吉は誕生した日に亡くなる。 姉・富子 1924年(大正13年)7月生 - 7歳の夏、疫痢にかかり亡くなる。 弟・隆 - 1981年(昭和56年)8月没。末期の癌で亡くなる。その闘病録として執筆したのが、『冷い夏、熱い夏』である。 妻・節子(松文産業の専務北原芳司の次女、作家) 1928年(昭和3年)6月生 - 長男 長女
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