八代目とは? わかりやすく解説

八代目

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異世界食堂」の記事における「八代目」の解説

同じ商店街にある蕎麦屋竹林庵」の店主

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八代目

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竹本むら太夫」の記事における「八代目」の解説

天保14年1843年6月 - 大正10年1921年2月10日竹本太夫二代目竹本春栄太夫 → 八代目竹本むら太夫 四代目竹本綱太夫二代目むら太夫)の門弟である五代目竹本春太夫門弟。師の没後は師の弟子である竹本攝津大掾門弟本名佐々木次郎。初名を竹本太夫といい、明治16年1883年松島文楽座祇園祭礼信仰記』「田の段 口」にて栄太夫二代目竹本春栄太夫襲名(同公演にて四代目竹本太夫四代目竹本長門(登)太夫襲名)。明治20年1887年4月松島文楽座鎌倉三代記』「三浦閑居の段 中」にて春栄太夫改八代目竹本むら太夫襲名(次は三代目竹本織太夫、切は三代目竹本津太夫七代目竹本綱太夫))。大正3年1914年3月興行限り太夫引退し文楽座頭取となる。 大正10年1921年2月10日79歳で死去戒名は亀誉信士墓所大阪市北区東寺町宝珠寺

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八代目

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竹本氏太夫」の記事における「八代目」の解説

竹本養老太夫 ⇒ 八代目竹本氏太夫竹本太夫 五代目太夫門弟。師の没後二代目越路太夫摂津大掾)の門弟となる。本名平井兵衛通称むぎわらという。素人天狗で「養老」といったが、そのまま養老太夫となり、明治6年1873年2月松島文楽座義経千本桜』「小金討死の段」で初出座。翌明治7年1874年9月松島文楽座玉藻前曦袂』「御殿の段」で八代目竹本氏太夫襲名明治10年1877年9月松島文楽座退座11月大江橋太夫竹本四郎芝居出座。翌明治11年1878年2月いなり北門小家太夫竹本長尾太夫芝居へ移る。5月松島文楽座復帰明治12年1879年文楽座芝居合間4月御霊土田太夫豊竹駒太夫出座同様に6月御霊土田席に出座11月より再び松島文楽座へ。明治15年1882年6月松島文楽座大内裏大友眞鳥』「大友眞鳥の段 切」を語り、序切語りに。明治18年1885年1月御霊文楽座まで文楽座出座明治20年1887年1月より彦六座移り明治22年1889年9月まで出座。翌10月より御霊文楽座復帰明治24年1891年9月御霊文楽座まで氏太夫名乗る明治25年1892年10月太夫改め竹本太夫となり、『伽羅先代萩』「御殿の段 跡」を語っている。明治26年1893年1月彦六座移り床頭取に(芝居にも出演)。彦六座最後となった同年9月まで出座。まもなく没した長く文楽座床頭取も務め明治16年1883年)に文楽座紋下問題(既に越路太夫二枚紋下となっていた吉田玉造加え初代團平紋下にするかどうか)が発生した際に、氏太夫調停奔走した。その調停成果により、越路團平玉造三人紋下納まることとなった

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八代目

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常磐津文字太夫」の記事における「八代目」の解説

大正7年1918年8月17日 - 平成3年1991年3月19日常磐津十六世家元。七代目文字太夫長男本名・常岡晃。前名十代目常磐津小文字太夫1930年から六代目尾上菊五郎により設立され日本俳優学校で学ぶ。1948年には「宮古路豊後掾詞章渥美清太郎作)」で十代目小文字太夫襲名。その披露演奏会帝国劇場開催された。1951年七代目文字太夫急逝により家元相続1953年七代目文字太夫三回忌追善兼ね6月1、2両日歌舞伎座において八代目常磐津文字太夫襲名披露演奏会開催された。襲名挨拶には五代目市川三升三代目市川左團次七代目坂東三津五郎二代目花柳壽輔口上述べた。又、襲名新曲「ひとのなさけ(三代目常磐津文字兵衛作曲六代目藤間勘十郎振付)」には、三代目市川左團次七代目尾上梅幸二代目尾上松緑出演した1957年には関西常磐津協会常磐津塚(七代目常磐津文字太夫七回忌常磐津節実演家供養高谷伸筆・千日前の自安寺1968年寂光寺江口の君堂に移転建立際し顧問として名を連ねる発起人代表は実弟常磐津文蔵)。1958年には芸術祭奨励賞受賞し1959年初代文字太夫生誕250年にあたることから、宮古路豊後掾慰霊碑祭られている浅草寺において、流祖250年回忌法要久保田万太郎筆)をいとなみ産経ホールにて記念演奏会開催した1969年第2次常磐津協会会長就任1970年に、主催する常磐津松韻第27回演奏会文化庁による芸術祭優秀賞受賞1981年流儀重鎮とともに重要無形文化財常磐津節総合認定)の保持者として認定され常磐津節保存会発足し初代会長就任する邦楽舞踊1991年)では、「江戸浄瑠璃中枢ともいえる常磐津を、堂々と継承してこられた家系の御当主として、これほどふさわしいお人柄は、またと有るまい」など評せられ、温厚な人柄でよく流派取りまとめ出光佐三本田宗一郎藤沢武夫など多く常磐津愛好者交流し女流門弟など後継者の育成尽力した。「本物本物として正当に評価され古き佳き時代を、きわめて正統的体現していられる稀有の人ではないか」など、重厚で品のある古風な語り口で、主に世話物を得意とし、麒麟児称されたほどの常磐津文蔵実弟三味線方名手)に関西常磐津協会任せ三男常磐津右衛門、四男常磐津浪花太夫と共に兄弟常磐津隆盛導いた1984年には社団法人日本芸能実演家団体協議会から第10回芸能功労者として表彰される1989年勲四等瑞宝章叙勲1990年には財団法人松尾芸能振興財団より、会長務め常磐津節保存会第11回松尾芸能賞伝統芸能特別賞受けた代表曲:「宮古路豊後掾」「芭蕉」「杜若寄す」「ひとのなさけ」

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八代目

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竹本綱太夫」の記事における「八代目」の解説

明治37年1904年1月3日 - 昭和44年1969年1月3日二代目豊竹つばめ太夫四代目竹本織太夫 → 八代目竹本綱太夫 本名生田巌。通称二ツ井戸子息初代豊竹咲太夫 明治37年1904年1月3日に、父生田勇、母れつの長男として出生。その年の勅題である「巌上の松」に因み生田巌と名付けられる父方祖父生田甫善といい延岡藩内藤家御典医母の姉瀧廉太郎実母であり、八代目綱太夫とは従兄弟同士となり、 その縁でキャスター筑紫哲也とも縁戚となる。 近所五代目竹本春太夫弟子竹本春之助とその娘の竹本春子という女義太夫師匠住んでおり、「鈴ヶ森」や「裏門」を習い竹本春尾という名前をもらう(因講には加入せず)。 明治44年1911年8月15日8歳二代目豊竹古靱太夫(のちの豊竹山城少掾)に入門師匠の前名である津葉芽(つばめ)太夫二代目豊竹つばめ太夫として名乗る。後に、子息の陽三(豊竹咲太夫)を9歳山城少掾入門させた際も、昭和28年1953年)の8月15日選んでいる。 初舞台前に師匠男衆であった浪花軒に天満松島千代崎寄席子供太夫として売り込まれ出演。後に師匠露見し大目玉食らう14歳の時、大正6年1917年2月御霊文楽座師匠二代目古靱太夫初代古靱太夫所縁の『蘆屋道満大内鑑』「葛の葉子別れ」を勤めた際に「乱菊」のツレへの出演を八代目鶴澤三二打診する師匠古靱太夫が首を立て振らず正式な初舞台同年10月25日初日御霊文楽座『仮名手本忠臣蔵』の「大序」で、豊竹つばめ太夫の名が初め文楽座番付載る語ったのは「国に羽をのすヶ岡」と紙半ほどであった。 翌大正7年1918年2月師匠古靱太夫三代目越路太夫の『絵本太功記』「尼ヶ崎」の代役で大評判取った公演で、「鉄扇」の掛け合い代役抜擢される。通常大序抜けるには早くて3年かかるが、同年11月『仮名手本忠臣蔵』で「恋歌の段」の師直勤め、序中へ昇進する大序在籍1年ほどであった。 その当時三代目竹本伊達太夫(後六代目竹本土佐太夫)宅で開かれていた「大序会」で『融通大念佛』「亀井太郎住家」『往古曽根崎村』「教興寺」といった珍しいものから、『一谷嫰軍記』「流しの枝」『妹背山婦女庭訓』「住家」『奥州安達原』「宗任物語」『加賀見山旧錦絵』「長局」『鎌倉三代記』「三浦別れ」『冥途の飛脚』「封印切」「淡路町」などを勤める。 大正11年1922年2月師匠古靱太夫代役として『一谷嫰軍記』「流しの枝の段」を19歳勤める。また、昭和2年1927年1月にも師匠古靱太夫代役として『絵本太功記』「尼ヶ崎の段」を24歳務める。この「尼ヶ崎」の代役が大評判をとり、松竹マーク入った白金メダルをもらう。この代役認められ、翌2月の『伽羅先代萩』「埴生村の段」の端場勤め抜擢を受ける。更に昭和5年1930年2月には綱太夫場である『摂州合邦辻』「合邦住家の段」においても師匠古靱太夫代役10日間ほど勤め松竹白井会長から褒状と金時計を、師匠古靱太夫からは床本記念にもらっている。翌昭和6年1931年3月には『義経千本桜』「河連館の段」にても師匠代役勤める。「河連館」は19年ぶりの上演であり、覚えのないものであったため、1日だけ四代目清六の稽古を受け、初日舞台上がった。この「河連館」を聞いた石割松太郎は「生れ初めて、拍手経験をした」と本人伝え、「この「川連舘」を恐らく二、三度の急稽古あれだけ語ってのけたつばめ太夫の芸、といはんより私はこの人明敏なる頭の働きとあの熱とを涙ぐましいまでに買ったのである。それで日頃浄瑠璃テクニック対す彼の研究が仇おろそかでない事を証明される。この点を双手挙げて褒めたい―私が拍手した条件半ばはここにある」と劇評記している。 昭和11年1936年12月加藤博士宅で開かれていた若手勉強会である「研声会」を発展させる形で、新義座を結成結成メンバー野澤勝平(後二代目野澤喜左衛門)を上置きに、四代目竹本南部太夫竹本叶美太夫豊竹小松太夫(後四代目竹本越路太夫)、竹本津磨太夫竹本越名太夫(後五代目竹本南部太夫)、豊竹つばめ太夫豊澤糸(後七代目豊竹岡太夫)、竹澤二郎(後十代目竹澤弥七)、野澤勝芳(後二代目野澤勝太郎)、鶴澤綱延(後四代目野澤錦糸)、野澤勝之輔の十二名。素浄瑠璃で旅公演行ったこの頃から三味線竹澤二郎(後十代目竹澤弥七)が務める。 2年後昭和13年1938年文楽座帰るように師匠古靱太夫から声が掛かり同年3月新町演舞場妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」の雛鳥復帰背山三味線初代鶴澤道八で、妹山を弾く團二郎復帰には、幕内ではいろいろな声があったが「わしは團二郎であろうと誰であろう勤めるで」と発言した同年5月四ツ橋文楽座ひらかな盛衰記』「右衛門内から逆櫓の段」にて四代目竹本織太夫襲名する同時に相三味線竹澤二郎七代目竹澤團六を襲名竹本綱太夫名跡師匠古靱太夫がその師匠である七代目竹本綱太夫から預かっており、いっぺんに竹本綱太夫襲名するのは早すぎるため、前名である竹本織太夫襲名した経緯がある。 「もともと津太夫名跡は、私にやると師匠はいつてゐられたのです。ちよいちよい法善寺お宅へ伺つてゐた父に、早くからさういつてゐられたのを、私は父から聞いてゐました。ずつとあと……明治四十一年十一月文楽座部屋中風倒れられてからは、舞台その時名残りに、師匠お宅で臥りつきりにしてゐられましたが、その頃になつて話の模様が変はつて、兄弟子文太夫が三代目を継ぐことになつて、私には替りに綱太夫をやるといはれたのですが、そのやうな斯道晴れがましい名跡穢すのが憚られましたので、私は辞退いたしました。」 と師匠古靱太夫語っている。 この織太夫襲名際し鴻池幸武がお祝い見台送り師匠古靱太夫鴻池お礼書状送っている。「昨日太夫より申参りましたには此度改名に附見台御祝下されましたとの事何んと申結構な事であろうふ私が頂戴致しました如きよりの嬉しさ重々御厚礼申上ます」 昭和19年1944年1月摂州合邦辻』「合邦住家の段」の後半勤めた際に、番付初めて「切」の字が付き切り場語り昇進初舞台から27年目、41歳でのことであった終戦後昭和22年1947年3月師匠古靱太夫秩父宮家から受領し豊竹山城少掾藤原重房名乗る。その披露興行である同年5月四ツ橋文楽座にて綱太夫場である『艶容女舞衣』「酒屋の段」で八代目竹本綱太夫襲名相三味線竹澤團六も十代目竹澤弥七襲名した師匠山城少掾三宅周太郎との対談で「さつき綱太夫をほめてもらひましたが、私は百人足らず弟子とりましたが、本當の私の弟子は綱太夫あれ一人です。」と語っている。 戦後近松物に力を入れ大序会の折に19歳勤めた心中重井筒』「六軒町」を始め、『心中天網島』「紙屋内から大和屋」『冥途の飛脚』「淡路町から封印切」『心中宵庚申』「上田村」『国性爺合戦』「楼門から獅子ヶ城」『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」『増補八卦』「大経師内」『信州川中島合戦』「輝虎配膳」等をレパートリーとした。「六軒町」の床本六代目太夫のもので師匠古靱太夫から譲られたものであるまた、野澤之輔(西亭)作曲物の初演として、昭和30年1955年1月曾根崎心中』「天満屋の段」、同年4月長町女腹切』「石垣町井筒屋の段」、同年6月鑓の権三重帷子』「浅香市之進留守宅より数寄屋の段」を勤め成功を収める。 さらに、八代目竹本綱太夫十代目竹澤弥七作曲として昭和31年1956年3月四ツ橋文楽座にて『今宮の心中』を上演その他にも『女殺油地獄』「豊島屋油店の段」『平家女護島』「朱雀御殿」を残している。近松物の他にも、菊池寛恩讐の彼方に』、安藤鶴夫『藝阿呆』、折口信夫死者の書』を綱太夫弥七作曲している。 六代目鶴澤友治郎からも教えを受け、『新薄雪物語』「園部館の段(三人笑い)」『碁太平記白石噺』「逆井の段」『鬼一法眼三略巻』「菊畑の段」『祇園祭礼信仰記』「金閣寺の段」「爪先鼠の段」『敵討襤褸錦』「次郎右衛門出の段」「大晏寺堤の段」等珍しい曲を教わり後世に遺している。また『競伊勢物語』「春日村の段」は直接友治郎から教わっていないものの、その高弟である鶴澤友造に習っている。また、豊澤松太郎からは、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」『信州川中島合戦』「輝虎配膳の段」教わるなど、上演頻度の低い演目継承努めたそれまでタブーとされていた歌舞伎役者との共演昭和34年1959年4月27日,28日新橋演舞場嬢景清八嶋日記』「日向嶋」にて八代目松本幸四郎他と行う。2年後昭和36年1961年4月には東京歌舞伎座にて『義経千本桜』「四の切」を十七代目中村勘三郎25日共演した昭和30年1955年2月重要無形文化財保持者いわゆる人間国宝第一次指定師匠山城少掾ともに受ける。昭和38年1963年4月15日義太夫多年業績対し日本芸術院賞を受け、翌日天皇陛下皇太子殿下高松宮殿下ご進講を行う。昭和44年1969年日本芸術院会員となる。 昭和44年1969年1月3日、自らの65回目誕生逝去戒名至寶院綱誉義月巌大居士。墓は安楽寺著書に『でんでん虫』(布井書房, 1964年)、『芸談かたつむり』(同、1966年)があり、山川静夫による評伝『綱大夫四季』(現在、岩波現代文庫)がある。

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玉屋庄兵衛」の記事における「八代目」の解説

本名高科正夫昭和25年1950年)- 平成7年1995年8月23日)。25歳時に七代目弟子入り昭和63年1988年)に八代目を継ぎ伝統的なからくり製作する一方でからくり制御コンピューター導入するなど新しい挑戦行った平成7年3月には弟に玉屋庄兵衛の名を譲り初代萬屋仁兵衛称した同年、癌により病没

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常磐津小文字太夫」の記事における「八代目」の解説

嘉永4年1851年)-昭和5年1930年)。後の常磐津十四世家元六代目常磐津文字太夫二代目常磐津豊後大掾。佐六文中(常磐津十一世家元六代目小文字太夫・常岡佐六)妻である常岡ツネ養子本名・常岡丑五郎

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田中傳左衛門」の記事における「八代目」の解説

生没年不詳七代目長男、弟に九代目四代目源助六代目佐太郎経て1867年に八代目傳左衛門襲名明治初年頃に病死

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鶴澤三二」の記事における「八代目」の解説

文久2年1862年4月25日 - 大正7年1918年6月29日鶴澤吉丸二代目鶴澤三造 ⇒ 四代目鶴澤徳太郎 ⇒ 八代目鶴澤三二 本名佐山三郎大阪市南区綿屋町出身二代目鶴澤吉左衛門二代目鶴澤清六三代目徳太郎門弟。後に二代目鶴澤勝七五代目豊澤廣助の門弟明治7年1874年1月道頓堀竹田芝居太夫竹本四郎芝居番付鶴澤吉丸名がある筆頭初代鶴澤清六明治8年1875年5月まで道頓堀竹田芝居出座明治9年1876年11月道頓堀弁天座の初代鶴澤清六引退披露出座明治10年1877年2月より初代豊竹古靱太夫座頭となり興行始めた御霊社内東小家に師二代目左衛門と共に出座。後に師匠となる三代目徳太郎二代目清六)と一座している。翌3月同座壇浦兜軍記』「琴責めの段」で師二代目左衛門三味線対し胡弓弾いている。三味線ツレ三代目徳太郎明治11年1878年2月初代古靭太夫斬殺された芝居まで御霊社小家出座し、3月より大江橋太夫竹本四郎一座師吉左衛門と共に移る。明治12年1879年)/明治13年1880年)に師二代目鶴澤吉左衛門没。そのため、三代目鶴澤徳太郎二代目鶴澤清六)の門弟となる。二代目鶴澤三造と改名した芝居は明らかではないが、『此君帖』は明治15年1882年)とする。 師二代目清六六代目太夫請われ明治15年1882年東京へ下ったため、大阪残った二代目三造は師二代目清六同門初代清六門弟)である二代目鶴澤勝七門弟となったこのように二代目清六門弟挟んで二代目勝七の門弟となったため、二代目左衛門没後、すぐ二代目勝七の門弟となった左衛門一門では弟弟子だった初代初代道八)が、二代目勝七一門では兄弟子となり、三造が弟弟子となるという逆転現象起こった。 「我々(二代目勝七)門人――高弟玉助(後の四代目勝七)、私、徳太郎四代目で、後の八代目三二この人は吉左衛門さんの門弟では高弟でしたが、勝七師匠への入門遅れていましたから下位でした)」という記述が『道八芸談』にある。 明治19年1886年1月御霊文楽座番付より鶴澤三造の名が確認できる明治23年1890年9月御霊文楽座にて三造改四代目鶴澤徳太郎襲名明治33年1900年3月御霊文楽座にて四代目徳太郎改八代目鶴澤三二襲名以降中央に座る。明治34年1901年)師二代目勝七が没したため、当時文楽座三味線筆頭である五代目豊澤広助の門弟となる。これは師を失い独立前であった40手前の八代目三二一座三味線責任者預かったという形式的なのである明治38年1905年1月御霊文楽座では筆末に。明治41年1908年6月御霊文楽座より、欄外だった二代目鶴澤寛治郎がハコに入る(三味線文字無し)。八代目三二三味線の筆末のまま。明治42年1909年1月御霊文楽座三代目清六と並び欄外へ。同年3月同座では三味線文字はないものの、三味線と同じ高さのハコ三代目清六と入る。以降ハコに入る番付ハコ入らない番付がある。明治43年1910年1月御霊文楽座では三代目清六が三味線の筆末に移り四代目鶴澤勇造(五代目鶴澤文蔵と共に三味線記されハコに入る。 大正3年1914年1月御霊文楽座より上2枚目へ。筆頭は2本線区切られハコ六代目豊澤広助である。上3枚目に三代目鶴澤清六。この時より五代目鶴澤徳太郎文楽座出座し、欄外記される以降も、文楽座の上2枚目に座り続け大正7年1918年6月23日初日御霊文楽座番付2枚目に名を刻むも、6月29日没。享年57歳戒名寂光院浄養清風居士墓所大阪小橋光昭寺大正8年1919年6月17日大阪市東区小橋光照寺にて八代目鶴澤三二の建墓式が営まれる幼名吉丸時代初代豊竹古靱太夫可愛がられ初代古靭太夫の墓に親柱寄進している。その縁で「豊竹古靭太夫」の名跡預かり師匠名跡竹本津太夫継げなくなり、さらに竹本綱太夫襲名辞退し、継ぐ名前のなかった竹本葉芽太夫二代目豊竹古靱太夫襲名勧めた。 「三代目清六さんが私の合三味線になつて下さることに話がすゝみまして、「清六さんに弾いて貰ふのやつたら、古靱を襲名したらどうや」と、古靱の名跡を預つてゐられた八代目鶴沢三二さん前名四徳太郎からお話があつたので、こんどは私も悦んでお受けしたのでした。……三二さんは初代古靱さんに子供の時から大変に可愛がられた方で、その頃はまだ若くて吉丸といつてゐられた時分ですが、凶変のあつた土田小屋開場ときまつて、巡業先の紀州新宮から一座帰阪する時でも、三二さんは古靱さんと相駕籠だつたさうです。古靱さんが歿くなられるとから、名跡はずつと三二さんが預つてゐられて三十二年目に私が襲名したけでしたそれまでにも、古靱を継ぎたいといふ申し出は、いくらもあつたんださうですが、大隅さんや法善寺師匠が「あんなもんに継がされん」といつて納得されないもんで、初代お弟子にさへ継がさなかつたんださうです。それほど師匠がたが重んじてゐられた、一代名人名跡を私が継ぐことが出来ましたのは、もちろん三二さんの御厚意ありますが、ひとへにこれは清六さんに弾いていたゞくことになつたお蔭だつたのです。」と、この経緯について二代目豊竹古靱太夫記している。 鴻池幸武宛て豊竹古靱太夫書簡書簡番号3「二世八郎三二名跡の事」に「三二名跡此頃死去致しました三二が八代目で私しが//此人の本全部を預つておりまして/右名前の譲渡書が二代から三代三代から/四代と云ふよふに皆御座います三二から/喜八郎にわなつている人わ御ざいません/是はたしかに写違ひと存じ升/又三二からに成つた方も有るよふに/書てあるものも見ております」と山城少掾記しているため、歴代鶴澤三二譲渡書を所有していた。

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八代目 (1988年 - 1994年)

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リンカーン・コンチネンタル」の記事における「八代目 (1988年 - 1994年)」の解説

1980年代後半コンチネンタル属す高級車分野状況はその10年前とは大きく変化していた。伝統的なライバルであるキャデラッククライスラー加えメルセデス・ベンツBMWアウディ参入し最終的にアキュラレクサスインフィニティといった高級車コンチネンタル競合相手となったこの様状況見越してリンカーン1981年第4四半期第8世代モデル開発着手コンチネンタルを完全に再設計する事を選択した1988年モデルコンチネンタル1987年12月26日発売されユニボディシャシーフォード・トーラスマーキュリー・セーブル共有し独自のボディインテリアデザイン採用した。このコンチネンタルリンカーン初の前輪駆動車となった。より保守的なエクステリア採用一環として傾斜したコンチネンタル・トランクリッドは廃止された。4インチ長くなったにも関わらず先代モデルより170ポンド軽くなり、1980年以来初めコンチネンタルはキャデラック・セダン ドヴィルとほぼ同じサイズになったコンチネンタル1988年販売され前輪駆動車の中で最大室内容積車種であり、カー・アンド・ドライバー誌の1989年度ベスト10リスト英語版)に掲載された。エンジン1988年トーラス/セーブル新たに導入された140馬力の3.8LエセックスV6搭載され、アダプティブ・エアライド・サスペンションと可変アシスト・パワーステアリングが標準装備されていた。エンジン出力1990年1991年モデル)に155馬力1993年モデルでは160馬力変更された。すべてのコンチネンタルには4速オーバードライブオートマチックトランスミッションが装備された。

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八代目

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鶴澤伝吉」の記事における「八代目」の解説

八代目鶴澤伝吉 本名堀江太吉墓所京都鳥辺山本寿寺戒名:大譽傳光祥安禅定門 没年昭和7年1932年1月17日享年73歳

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八代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/15 05:56 UTC 版)

竹沢弥七」の記事における「八代目」の解説

八代目 竹澤 彌七弘化元年1844年)- 大正5年1916年8月1日京都生まれ本名上田彌造。はじめ七代目門下竹澤爲造、のち初代竹澤彌造四代目竹澤團六、四代目竹澤宗六を経て明治11年1878年)に八代目を襲名したという。通称因幡薬師」。

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八代目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 09:04 UTC 版)

竹本紋太夫」の記事における「八代目」の解説

文政2年1819年) - 大正6年1917年11月2日二代目竹本阿蘇太夫 → 八代目竹本紋太夫三代目竹本勢見太夫 五代目竹本綱太夫七代目紋太夫)の門弟文政2年1819年徳島市内町一丁目生まれ本名粂川勝治郎。『此君帖』では五代目太夫への入門天保9年1838年)とし、『義太夫年表 明治篇』では初出座を天保5年1834年)するが、天保12年1841年刊行三ヶ津太夫三味線人形改名師第附」に「豊太夫竹本阿蘇太夫」 とあることから、三代目太夫門弟初代竹本阿蘇太夫存命中と考えられ初出座の時期詳らかではない。万延元年1860年8月 座摩社内奥州安達原』「朱雀野ノ段」にて阿蘇太夫事八代目竹本紋太夫襲名。同芝居で後に六代目太夫襲名する三代目竹本阿蘇太夫襲名行われている。 文久2年1861年正月刊行見立番付三都太夫三味線操見競鑑」の欄外に「前頭 大坂 竹本紋太夫竹本勢イ見太夫」とあることから、紋太夫襲名一年後三代目竹本勢見太夫襲名したことがわかる。『此君帖』でも勢見太夫襲名同年としている。 紋太夫代数に関しては、五代目太夫七代目紋太夫とすることから、その弟子紋太夫を八代目とする。

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