八代目
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八代目
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(天保14年(1843年)6月 - 大正10年(1921年)2月10日) 竹本栄太夫 → 二代目竹本春栄太夫 → 八代目竹本むら太夫 四代目竹本綱太夫(二代目むら太夫)の門弟である五代目竹本春太夫の門弟。師の没後は師の弟子である竹本攝津大掾の門弟。 本名を佐々木龜次郎。初名を竹本栄太夫といい、明治16年(1883年)松島文楽座『祇園祭礼信仰記』「鳶田の段 口」にて栄太夫改二代目竹本春栄太夫を襲名(同公演にて四代目竹本実太夫が四代目竹本長門(登)太夫を襲名)。明治20年(1887年)4月松島文楽座『鎌倉三代記』「三浦母閑居の段 中」にて春栄太夫改八代目竹本むら太夫を襲名(次は三代目竹本織太夫、切は三代目竹本津太夫(七代目竹本綱太夫))。大正3年(1914年)3月興行を限りに太夫を引退し、文楽座の頭取となる。 大正10年(1921年)2月10日、79歳で死去。戒名は亀誉鶴峯信士。墓所は大阪市北区東寺町宝珠寺。
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八代目
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竹本養老太夫 ⇒ 八代目竹本氏太夫 ⇒ 竹本浦太夫 五代目春太夫の門弟。師の没後は二代目越路太夫(摂津大掾)の門弟となる。本名を平井卯兵衛。通称をむぎわらの蛇という。素人の天狗で「養老」といったが、そのまま養老太夫となり、明治6年(1873年)2月松島文楽座『義経千本桜』「小金吾討死の段」で初出座。翌明治7年(1874年)9月松島文楽座『玉藻前曦袂』「御殿の段」で八代目竹本氏太夫を襲名。 明治10年(1877年)9月で松島文楽座を退座。11月大江橋席太夫竹本山四郎の芝居に出座。翌明治11年(1878年)2月いなり北門小家太夫竹本長尾太夫の芝居へ移る。5月松島文楽座に復帰。明治12年(1879年)文楽座の芝居の合間に4月御霊土田席太夫豊竹駒太夫に出座。同様に6月も御霊土田席に出座。11月より再び松島文楽座へ。明治15年(1882年)6月松島文楽座『大内裏大友眞鳥』「大友眞鳥の段 切」を語り、序切語りに。明治18年(1885年)1月御霊文楽座まで文楽座へ出座。 明治20年(1887年)1月より彦六座へ移り、明治22年(1889年)9月まで出座。翌10月より御霊文楽座へ復帰。明治24年(1891年)9月御霊文楽座まで氏太夫を名乗る。明治25年(1892年)10月氏太夫改め竹本浦太夫となり、『伽羅先代萩』「御殿の段 跡」を語っている。明治26年(1893年)1月彦六座に移り、床頭取に(芝居にも出演)。彦六座の最後となった同年9月まで出座。まもなく没した。 長く文楽座の床頭取も務め、明治16年(1883年)に文楽座の紋下問題(既に越路太夫と二枚紋下となっていた吉田玉造に加え、初代團平を紋下にするかどうか)が発生した際に、氏太夫が調停に奔走した。その調停の成果により、越路・團平・玉造の三人紋下で納まることとなった。
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八代目
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大正7年(1918年)8月17日 - 平成3年(1991年)3月19日。常磐津十六世家元。七代目文字太夫の長男。本名・常岡晃。前名十代目常磐津小文字太夫。1930年から六代目尾上菊五郎により設立された日本俳優学校で学ぶ。1948年には「宮古路豊後掾(詞章・渥美清太郎作)」で十代目小文字太夫を襲名。その披露演奏会が帝国劇場で開催された。1951年七代目文字太夫の急逝により家元を相続、1953年七代目文字太夫の三回忌追善を兼ね、6月1、2日両日、歌舞伎座において八代目常磐津文字太夫の襲名披露演奏会が開催された。襲名挨拶には五代目市川三升、三代目市川左團次、七代目坂東三津五郎、二代目花柳壽輔が口上を述べた。又、襲名新曲「ひとのなさけ(三代目常磐津文字兵衛作曲・六代目藤間勘十郎振付)」には、三代目市川左團次、七代目尾上梅幸、二代目尾上松緑が出演した。1957年には関西常磐津協会の常磐津塚(七代目常磐津文字太夫七回忌・常磐津節実演家供養・高谷伸筆・千日前の自安寺、1968年に寂光寺江口の君堂に移転)建立に際し、顧問として名を連ねる(発起人代表は実弟の常磐津文蔵)。1958年には芸術祭奨励賞を受賞し、1959年は初代文字太夫生誕の250年にあたることから、宮古路豊後掾の慰霊碑が祭られている浅草寺において、流祖250年回忌の法要(久保田万太郎筆)をいとなみ、産経ホールにて記念演奏会を開催した。1969年に第2次常磐津協会会長に就任。1970年に、主催する常磐津松韻会第27回演奏会が文化庁による芸術祭優秀賞を受賞。1981年に流儀の重鎮とともに重要無形文化財常磐津節(総合認定)の保持者として認定され、常磐津節保存会を発足し初代会長に就任する。邦楽と舞踊(1991年)では、「江戸浄瑠璃の中枢ともいえる常磐津を、堂々と継承してこられた家系の御当主として、これほどふさわしいお人柄は、またと有るまい」など評せられ、温厚な人柄でよく流派を取りまとめ、出光佐三や本田宗一郎、藤沢武夫など多くの常磐津愛好者と交流し、女流門弟など後継者の育成に尽力した。「本物が本物として正当に評価された古き佳き時代を、きわめて正統的に体現していられる稀有の人ではないか」など、重厚で品のある古風な語り口で、主に世話物を得意とし、麒麟児と称されたほどの常磐津文蔵(実弟・三味線方名手)に関西の常磐津協会を任せ、三男常磐津文右衛門、四男常磐津浪花太夫と共に四兄弟で常磐津を隆盛に導いた。1984年には社団法人日本芸能実演家団体協議会から第10回芸能功労者として表彰される。1989年に勲四等瑞宝章を叙勲。1990年には財団法人松尾芸能振興財団より、会長を務める常磐津節保存会が第11回松尾芸能賞伝統芸能特別賞を受けた。 代表曲:「宮古路豊後掾」「芭蕉」「杜若に寄す」「ひとのなさけ」
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八代目
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(明治37年(1904年)1月3日 - 昭和44年(1969年)1月3日) 二代目豊竹つばめ太夫 → 四代目竹本織太夫 → 八代目竹本綱太夫 本名:生田巌。通称:二ツ井戸。子息は初代豊竹咲太夫 明治37年(1904年)1月3日に、父生田勇、母れつの長男として出生。その年の勅題である「巌上の松」に因み生田巌と名付けられる。父方の祖父は生田甫善といい延岡藩内藤家の御典医。母の姉が瀧廉太郎の実母であり、八代目綱太夫とは従兄弟同士となり、 その縁でキャスターの筑紫哲也とも縁戚となる。 近所に五代目竹本春太夫の弟子の竹本春之助とその娘の竹本春子という女義太夫の師匠が住んでおり、「鈴ヶ森」や「裏門」を習い、竹本春尾という名前をもらう(因講には加入せず)。 明治44年(1911年)8月15日、8歳で二代目豊竹古靱太夫(のちの豊竹山城少掾)に入門。師匠の前名である津葉芽(つばめ)太夫を二代目豊竹つばめ太夫として名乗る。後に、子息の陽三(豊竹咲太夫)を9歳で山城少掾に入門させた際も、昭和28年(1953年)の8月15日を選んでいる。 初舞台の前に、師匠の男衆であった浪花軒に天満や松島の千代崎橋の寄席に子供太夫として売り込まれ出演。後に師匠に露見し大目玉を食らう。 14歳の時、大正6年(1917年)2月御霊文楽座で師匠二代目古靱太夫が初代古靱太夫所縁の『蘆屋道満大内鑑』「葛の葉子別れ」を勤めた際に「乱菊」のツレへの出演を八代目鶴澤三二が打診するも師匠古靱太夫が首を立てに振らず、正式な初舞台は同年10月25日初日の御霊文楽座『仮名手本忠臣蔵』の「大序」で、豊竹つばめ太夫の名が初めて文楽座の番付に載る。語ったのは「国に羽をのす鶴ヶ岡」と紙半枚ほどであった。 翌大正7年(1918年)2月、師匠古靱太夫が三代目越路太夫の『絵本太功記』「尼ヶ崎」の代役で大評判を取った公演で、「鉄扇」の掛け合いの代役に抜擢される。通常大序を抜けるには早くて3年かかるが、同年11月『仮名手本忠臣蔵』で「恋歌の段」の師直を勤め、序中へ昇進する。大序在籍は1年ほどであった。 その当時、三代目竹本伊達太夫(後六代目竹本土佐太夫)宅で開かれていた「大序会」で『融通大念佛』「亀井太郎住家」『往古曽根崎村』「教興寺」といった珍しいものから、『一谷嫰軍記』「流しの枝」『妹背山婦女庭訓』「芝六住家」『奥州安達原』「宗任物語」『加賀見山旧錦絵』「長局」『鎌倉三代記』「三浦別れ」『冥途の飛脚』「封印切」「淡路町」などを勤める。 大正11年(1922年)2月師匠古靱太夫の代役として『一谷嫰軍記』「流しの枝の段」を19歳で勤める。また、昭和2年(1927年)1月にも師匠古靱太夫の代役として『絵本太功記』「尼ヶ崎の段」を24歳で務める。この「尼ヶ崎」の代役が大評判をとり、松竹のマークの入った白金のメダルをもらう。この代役が認められ、翌2月の『伽羅先代萩』「埴生村の段」の端場を勤め、抜擢を受ける。更に昭和5年(1930年)2月には綱太夫場である『摂州合邦辻』「合邦住家の段」においても師匠古靱太夫の代役を10日間ほど勤め、松竹の白井会長から褒状と金時計を、師匠古靱太夫からは床本を記念にもらっている。翌昭和6年(1931年)3月には『義経千本桜』「河連館の段」にても師匠の代役を勤める。「河連館」は19年ぶりの上演であり、覚えのないものであったため、1日だけ四代目清六の稽古を受け、初日の舞台に上がった。この「河連館」を聞いた石割松太郎は「生れて初めて、拍手の経験をした」と本人に伝え、「この「川連舘」を恐らく二、三度の急稽古であれだけ語ってのけたつばめ太夫の芸、といはんより私はこの人の明敏なる頭の働きとあの熱とを涙ぐましいまでに買ったのである。それで日頃の浄瑠璃のテクニックに対する彼の研究が仇おろそかでない事を証明される。この点を双手を挙げて褒めたい―私が拍手した条件の半ばはここにある」と劇評に記している。 昭和11年(1936年)12月、加藤亨博士宅で開かれていた若手勉強会である「研声会」を発展させる形で、新義座を結成。結成メンバーは野澤勝平(後二代目野澤喜左衛門)を上置きに、四代目竹本南部太夫、竹本叶美太夫、豊竹小松太夫(後四代目竹本越路太夫)、竹本津磨太夫、竹本越名太夫(後五代目竹本南部太夫)、豊竹つばめ太夫、豊澤猿糸(後七代目豊竹岡太夫)、竹澤團二郎(後十代目竹澤弥七)、野澤勝芳(後二代目野澤勝太郎)、鶴澤綱延(後四代目野澤錦糸)、野澤勝之輔の十二名。素浄瑠璃で旅公演を行った。この頃から三味線は竹澤團二郎(後十代目竹澤弥七)が務める。 2年後の昭和13年(1938年)文楽座へ帰るように師匠古靱太夫から声が掛かり、同年3月新町演舞場『妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」の雛鳥で復帰。背山の三味線は初代鶴澤道八で、妹山を弾く團二郎の復帰には、幕内ではいろいろな声があったが「わしは團二郎であろうと誰であろうと勤めるで」と発言した。 同年5月四ツ橋文楽座『ひらかな盛衰記』「松右衛門内から逆櫓の段」にて四代目竹本織太夫を襲名する。同時に相三味線の竹澤團二郎が七代目竹澤團六を襲名。竹本綱太夫の名跡は師匠古靱太夫がその師匠である七代目竹本綱太夫から預かっており、いっぺんに竹本綱太夫を襲名するのは早すぎるため、前名である竹本織太夫を襲名した経緯がある。 「もともと津太夫の名跡は、私にやると師匠はいつてゐられたのです。ちよいちよい法善寺のお宅へ伺つてゐた父に、早くからさういつてゐられたのを、私は父から聞いてゐました。ずつとあと……明治四十一年の十一月、文楽座の部屋で中風で倒れられてからは、舞台はその時を名残りに、師匠はお宅で臥りつきりにしてゐられましたが、その頃になつて話の模様が変はつて、兄弟子の文太夫が三代目を継ぐことになつて、私には替りに綱太夫をやるといはれたのですが、そのやうな斯道で晴れがましい名跡を穢すのが憚られましたので、私は辞退いたしました。」 と師匠古靱太夫は語っている。 この織太夫襲名に際し、鴻池幸武がお祝いに見台を送り、師匠古靱太夫が鴻池へお礼の書状を送っている。「昨日織太夫より申参りましたには此度改名に附見台を御祝下されましたとの事何んと申結構な事であろうふ私が頂戴致しましたる如きよりの嬉しさ重々御厚礼申上ます」 昭和19年(1944年)1月『摂州合邦辻』「合邦住家の段」の後半を勤めた際に、番付に初めて「切」の字が付き、切り場語りに昇進。初舞台から27年目、41歳でのことであった。 終戦後の昭和22年(1947年)3月師匠古靱太夫が秩父宮家から受領し、豊竹山城少掾藤原重房を名乗る。その披露興行である同年5月四ツ橋文楽座にて綱太夫場である『艶容女舞衣』「酒屋の段」で八代目竹本綱太夫を襲名。相三味線の竹澤團六も十代目竹澤弥七を襲名した。 師匠山城少掾は三宅周太郎との対談で「さつき綱太夫をほめてもらひましたが、私は百人足らずの弟子をとりましたが、本當の私の弟子は綱太夫あれ一人です。」と語っている。 戦後は近松物に力を入れ、大序会の折に19歳で勤めた『心中重井筒』「六軒町」を始め、『心中天網島』「紙屋内から大和屋」『冥途の飛脚』「淡路町から封印切」『心中宵庚申』「上田村」『国性爺合戦』「楼門から獅子ヶ城」『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」『増補恋八卦』「大経師内」『信州川中島合戦』「輝虎配膳」等をレパートリーとした。「六軒町」の床本は六代目綱太夫のもので師匠古靱太夫から譲られたものである。 また、野澤松之輔(西亭)作曲物の初演として、昭和30年(1955年)1月『曾根崎心中』「天満屋の段」、同年4月『長町女腹切』「石垣町井筒屋の段」、同年6月『鑓の権三重帷子』「浅香市之進留守宅より数寄屋の段」を勤め、成功を収める。 さらに、八代目竹本綱太夫十代目竹澤弥七作曲として昭和31年(1956年)3月四ツ橋文楽座にて『今宮の心中』を上演、その他にも『女殺油地獄』「豊島屋油店の段」『平家女護島』「朱雀御殿」を残している。近松物の他にも、菊池寛『恩讐の彼方に』、安藤鶴夫『藝阿呆』、折口信夫『死者の書』を綱太夫弥七で作曲している。 六代目鶴澤友治郎からも教えを受け、『新薄雪物語』「園部館の段(三人笑い)」『碁太平記白石噺』「逆井村の段」『鬼一法眼三略巻』「菊畑の段」『祇園祭礼信仰記』「金閣寺の段」「爪先鼠の段」『敵討襤褸錦』「次郎右衛門出の段」「大晏寺堤の段」等珍しい曲を教わり、後世に遺している。また『競伊勢物語』「春日村の段」は直接友治郎から教わっていないものの、その高弟である鶴澤友造に習っている。また、豊澤松太郎からは、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」『信州川中島合戦』「輝虎配膳の段」教わるなど、上演頻度の低い演目の継承に努めた。 それまでタブーとされていた歌舞伎役者との共演を昭和34年(1959年)4月27日,28日新橋演舞場『嬢景清八嶋日記』「日向嶋」にて八代目松本幸四郎他と行う。2年後の昭和36年(1961年)4月には東京歌舞伎座にて『義経千本桜』「四の切」を十七代目中村勘三郎を25日間共演した。 昭和30年(1955年)2月、重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝の第一次指定を師匠山城少掾ともに受ける。昭和38年(1963年)4月15日「義太夫多年の業績に対し」日本芸術院賞を受け、翌日天皇陛下・皇太子殿下・高松宮殿下にご進講を行う。昭和44年(1969年)日本芸術院会員となる。 昭和44年(1969年)1月3日、自らの65回目の誕生に逝去。戒名は至寶院綱誉義月松巌大居士。墓は安楽寺。 著書に『でんでん虫』(布井書房, 1964年)、『芸談かたつむり』(同、1966年)があり、山川静夫による評伝『綱大夫四季』(現在、岩波現代文庫)がある。
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八代目
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本名は高科正夫(昭和25年(1950年)- 平成7年(1995年)8月23日)。25歳の時に七代目に弟子入り。昭和63年(1988年)に八代目を継ぎ、伝統的なからくりを製作する一方でからくりの制御にコンピューターを導入するなど新しい挑戦も行った。平成7年3月には弟に玉屋庄兵衛の名を譲り、初代萬屋仁兵衛と称した。同年、癌により病没。
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八代目
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嘉永4年(1851年)-昭和5年(1930年)。後の常磐津十四世家元・六代目常磐津文字太夫。二代目常磐津豊後大掾。佐六文中(常磐津十一世家元・六代目小文字太夫・常岡佐六)妻である常岡ツネの養子。本名・常岡丑五郎。
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八代目
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(生没年不詳) 七代目の長男、弟に九代目。四代目源助、六代目佐太郎を経て1867年に八代目傳左衛門を襲名。明治初年頃に病死。
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八代目
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(文久2年(1862年)4月25日 - 大正7年(1918年)6月29日) 鶴澤吉丸 ⇒ 二代目鶴澤三造 ⇒ 四代目鶴澤徳太郎 ⇒ 八代目鶴澤三二 本名:佐山種三郎。大阪市南区綿屋町出身。二代目鶴澤吉左衛門、二代目鶴澤清六(三代目徳太郎)門弟。後に二代目鶴澤勝七、五代目豊澤廣助の門弟。 明治7年(1874年)1月道頓堀竹田芝居太夫竹本山四郎の芝居の番付に鶴澤吉丸の名がある。筆頭は初代鶴澤清六。明治8年(1875年)5月まで道頓堀竹田芝居に出座。明治9年(1876年)11月道頓堀弁天座の初代鶴澤清六引退披露に出座。明治10年(1877年)2月より初代豊竹古靱太夫が座頭となり興行を始めた御霊社内東小家に師二代目吉左衛門と共に出座。後に師匠となる三代目徳太郎(二代目清六)と一座している。翌3月同座『壇浦兜軍記』「琴責めの段」で師二代目吉左衛門の三味線に対し、胡弓を弾いている。三味線のツレは三代目徳太郎。 明治11年(1878年)2月の初代古靭太夫が斬殺された芝居まで御霊社内小家に出座し、3月より大江橋席太夫竹本山四郎の一座に師吉左衛門と共に移る。明治12年(1879年)/明治13年(1880年)に師二代目鶴澤吉左衛門没。そのため、三代目鶴澤徳太郎(二代目鶴澤清六)の門弟となる。二代目鶴澤三造と改名した芝居は明らかではないが、『此君帖』は明治15年(1882年)とする。 師二代目清六が六代目綱太夫に請われ、明治15年(1882年)東京へ下ったため、大阪に残った二代目三造は師二代目清六の同門(初代清六門弟)である二代目鶴澤勝七の門弟となった。このように二代目清六門弟を挟んで、二代目勝七の門弟となったため、二代目吉左衛門の没後、すぐ二代目勝七の門弟となった吉左衛門一門では弟弟子だった初代友松(初代道八)が、二代目勝七一門では兄弟子となり、三造が弟弟子となるという逆転現象が起こった。 「我々(二代目勝七)門人――高弟の玉助(後の四代目勝七)、私、徳太郎(四代目で、後の八代目三二、この人は吉左衛門さんの門弟では高弟でしたが、勝七師匠への入門は遅れていましたから下位でした)」という記述が『道八芸談』にある。 明治19年(1886年)1月御霊文楽座の番付より鶴澤三造の名が確認できる。明治23年(1890年)9月御霊文楽座にて三造改四代目鶴澤徳太郎を襲名。明治33年(1900年)3月御霊文楽座にて四代目徳太郎改八代目鶴澤三二を襲名。以降、中央に座る。明治34年(1901年)師二代目勝七が没したため、当時の文楽座の三味線筆頭である五代目豊澤広助の門弟となる。これは師を失い独立前であった40手前の八代目三二を一座の三味線の責任者が預かったという形式的なものである。 明治38年(1905年)1月御霊文楽座では筆末に。明治41年(1908年)6月御霊文楽座より、欄外だった二代目鶴澤寛治郎がハコに入る(三味線の文字は無し)。八代目三二は三味線欄の筆末のまま。明治42年(1909年)1月御霊文楽座三代目清六と並び欄外へ。同年3月同座では三味線の文字はないものの、三味線欄と同じ高さのハコに三代目清六と入る。以降、ハコに入る番付とハコに入らない番付がある。明治43年(1910年)1月御霊文楽座では三代目清六が三味線欄の筆末に移り、四代目鶴澤勇造(五代目鶴澤文蔵)と共に三味線と記されたハコに入る。 大正3年(1914年)1月御霊文楽座より上2枚目へ。筆頭は2本線で区切られたハコの六代目豊澤広助である。上3枚目に三代目鶴澤清六。この時より五代目鶴澤徳太郎が文楽座へ出座し、欄外に記される。以降も、文楽座の上2枚目に座り続け、大正7年(1918年)6月23日初日の御霊文楽座の番付上2枚目に名を刻むも、6月29日没。享年57歳。戒名は寂光院浄養清風居士。墓所は大阪小橋光昭寺。 大正8年(1919年)6月17日大阪市東区小橋光照寺にて八代目鶴澤三二の建墓式が営まれる。 幼名吉丸時代に初代豊竹古靱太夫に可愛がられ、初代古靭太夫の墓に親柱を寄進している。その縁で「豊竹古靭太夫」の名跡を預かり、師匠の名跡竹本津太夫を継げなくなり、さらに竹本綱太夫襲名を辞退し、継ぐ名前のなかった竹本津葉芽太夫に二代目豊竹古靱太夫の襲名を勧めた。 「三代目清六さんが私の合三味線になつて下さることに話がすゝみまして、「清六さんに弾いて貰ふのやつたら、古靱を襲名したらどうや」と、古靱の名跡を預つてゐられた八代目鶴沢三二さん前名四代徳太郎からお話があつたので、こんどは私も悦んでお受けしたのでした。……三二さんは初代古靱さんに子供の時から大変に可愛がられた方で、その頃はまだ若くて、吉丸といつてゐられた時分ですが、凶変のあつた土田の小屋が開場ときまつて、巡業先の紀州の新宮から一座が帰阪する時でも、三二さんは古靱さんと相駕籠だつたさうです。古靱さんが歿くなられるとから、名跡はずつと三二さんが預つてゐられて三十二年目に私が襲名したわけでした。それまでにも、古靱を継ぎたいといふ申し出は、いくらもあつたんださうですが、大隅さんや法善寺の師匠が「あんなもんに継がされん」といつて納得されないもんで、初代のお弟子にさへ継がさなかつたんださうです。それほどに師匠がたが重んじてゐられた、一代の名人の名跡を私が継ぐことが出来ましたのは、もちろん三二さんの御厚意もありますが、ひとへにこれは清六さんに弾いていたゞくことになつたお蔭だつたのです。」と、この経緯について二代目豊竹古靱太夫は記している。 鴻池幸武宛て豊竹古靱太夫書簡の書簡番号3「二世喜八郎及三二/名跡の事」に「三二名跡は此頃/死去致しました三二が八代目で私しが//此人の本全部を預つておりまして/右名前の譲渡書が二代から三代三代から/四代と云ふよふに皆御座いますが三二から/喜八郎にわなつている人わ御ざいません/是はたしかに写違ひと存じ升/又三二から蟻鳳に成つた方も有るよふに/書てあるものも見ております」と山城少掾は記しているため、歴代の鶴澤三二の譲渡書を所有していた。
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八代目 (1988年 - 1994年)
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「リンカーン・コンチネンタル」の記事における「八代目 (1988年 - 1994年)」の解説
1980年代後半、コンチネンタルが属する高級車分野の状況はその10年前とは大きく変化していた。伝統的なライバルであるキャデラックやクライスラーに加えメルセデス・ベンツ、BMW、アウディが参入し、最終的にはアキュラ、レクサス、インフィニティといった高級車もコンチネンタルの競合相手となった。 この様な状況を見越してリンカーンは1981年第4四半期に第8世代モデルの開発に着手、コンチネンタルを完全に再設計する事を選択した。 1988年型モデルのコンチネンタルは1987年12月26日に発売され、ユニボディのシャシーをフォード・トーラスやマーキュリー・セーブルと共有し独自のボディとインテリアデザインを採用した。このコンチネンタルはリンカーン初の前輪駆動車となった。より保守的なエクステリア採用の一環として傾斜したコンチネンタル・トランクリッドは廃止された。4インチ長くなったにも関わらず、先代モデルより170ポンドも軽くなり、1980年以来初めてコンチネンタルはキャデラック・セダン ドヴィルとほぼ同じサイズになった。 コンチネンタルは1988年に販売された前輪駆動車の中で最大の室内容積の車種であり、カー・アンド・ドライバー誌の1989年度ベスト10リスト(英語版)に掲載された。エンジンは1988年にトーラス/セーブルに新たに導入された140馬力の3.8LエセックスV6が搭載され、アダプティブ・エアライド・サスペンションと可変アシスト・パワーステアリングが標準装備されていた。エンジン出力は1990年(1991年モデル)に155馬力、1993年モデルでは160馬力に変更された。すべてのコンチネンタルには4速オーバードライブオートマチックトランスミッションが装備された。
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八代目
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八代目鶴澤伝吉 本名:堀江太吉。墓所:京都鳥辺山本寿寺。戒名:大譽傳光祥安禅定門 没年:昭和7年(1932年)1月17日。享年73歳
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八代目
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八代目 竹澤 彌七(弘化元年(1844年)- 大正5年(1916年)8月1日) 京都の生まれ、本名は上田彌造。はじめ七代目の門下で竹澤爲造、のち初代竹澤彌造、四代目竹澤團六、四代目竹澤宗六を経て、明治11年(1878年)に八代目を襲名したという。通称「因幡薬師」。
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八代目
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(文政2年(1819年) - 大正6年(1917年)11月2日) 二代目竹本阿蘇太夫 → 八代目竹本紋太夫 → 三代目竹本勢見太夫 五代目竹本綱太夫(七代目紋太夫)の門弟。文政2年(1819年)徳島市内町一丁目の生まれ。本名、粂川勝治郎。『此君帖』では五代目綱太夫への入門を天保9年(1838年)とし、『義太夫年表 明治篇』では初出座を天保5年(1834年)するが、天保12年(1841年)刊行「三ヶ津太夫三味線人形改名師第附」に「豊太夫改 竹本阿蘇太夫」 とあることから、三代目綱太夫門弟の初代竹本阿蘇太夫が存命中と考えられ、初出座の時期は詳らかではない。万延元年(1860年)8月 座摩社内『奥州安達原』「朱雀野ノ段」にて阿蘇太夫事八代目竹本紋太夫を襲名。同芝居で後に六代目政太夫を襲名する三代目竹本阿蘇太夫の襲名も行われている。 文久2年(1861年)正月刊行の見立番付「三都太夫三味線操見競鑑」の欄外に「前頭 大坂 竹本紋太夫事竹本勢イ見太夫」とあることから、紋太夫襲名の一年後に三代目竹本勢見太夫を襲名したことがわかる。『此君帖』でも勢見太夫襲名を同年としている。 紋太夫の代数に関しては、五代目綱太夫を七代目紋太夫とすることから、その弟子の紋太夫を八代目とする。
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