八代洲河岸と麹町区八重洲町
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「八重洲」の記事における「八代洲河岸と麹町区八重洲町」の解説
「丸の内」および「八重洲橋」も参照 徳川家康の江戸入府当時、日比谷から皇居外苑・和田倉門付近まで日比谷入江が入り込んでおり、その東側には江戸前島と呼ばれる半島状の地形があった。『慶長記』には、道三河岸とともに八重洲河岸の記載がある:960。河岸(かし)とは荷揚げ場を指し、市場的な役割も果たした場所である。道三堀(江戸前島の付け根部分、和田倉門から呉服橋門にかけての水路)の開削と周辺の市街地成立が江戸の町割りのはじめとされるが、江戸前島の日比谷入江側に成立した八重洲河岸は、江戸初期の中心的な河岸の一つであり、築城資材を積んだ船が入って江戸城建設の起点となるとともに、経済活動の拠点ともなった。1608年(慶長13年)には、道三河岸と八重洲河岸に奉行所が設置されて町人の見張り番所が置かれた:960。 外濠の開削・日比谷入江の埋め立てが進められると、外濠の内側は江戸城内部(御曲輪内)とされた。御曲輪内の町人地は「内町」とも呼ばれたが(寛永江戸図では内濠外側に河岸や町人地が残されている)、城下の整備とともに町人は外側へと移転させられていった。八重洲河岸は寛永5年(1628年)に御用地となり、町人には代地が与えられた。八重洲河岸にあった漁師町は京橋付近に移され、新肴町(現在の中央区銀座三丁目)になった:32。弥左衛門町(銀座四丁目)もこの時に八重洲河岸から移転したという。 こうして、現在の東京駅西側にあたる内濠と外濠に挟まれた一帯には大名屋敷(江戸藩邸)が立ち並び、中央を走る街路から大名小路と呼ばれる地域となった。 万治3年(1660年)、馬場先門近くの「八代洲河岸」には定火消屋敷(幕府直轄の消防組織)の一つが置かれた(現在の明治生命館付近)。浮世絵師の歌川広重は定火消同心安藤家の嫡男として八代洲河岸の定火消屋敷で誕生し、のちに火消同心職を務めた。 この一帯の大名屋敷は、安政の大地震(安政2年=1855年)で被害を受けた上に、幕末期に政治の中心が上方に移ったこともあって荒廃した。大名屋敷は明治維新後に官有地となり、官庁や軍施設が置かれたが、1872年には大火(銀座大火)で焼失を被った。 1872年(明治5年)、外濠と内濠にかけて「八重洲町1~2丁目」の町名が設定された。この「八重洲町」は現在の丸の内2丁目の南部にあたり、おおむね丸ビル南側の通り(丸の内2ndストリート)以南、馬場先通り以北である。内濠(八重洲河岸)に面した側(馬場先門外)が「八重洲町一丁目」、外濠に面した側(鍛冶橋門内)が「八重洲二丁目」であった。この時期、「丸の内」は八重洲町や、その北隣の永楽町などを含む一帯の通称地名として使用されていた。1878年(明治11年)にこの地域は麹町区に含まれた。 1883年(明治16年)測図の「東京図測量原図 : 五千分一 東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍」によれば、内濠側の八重洲町一丁目に陸軍施設(東京鎮台騎兵営・輜重兵営)、外濠側の二丁目に官庁(司法省、東京裁判所、大審院、警視庁)が置かれていた。 1884年(明治17年)、外濠に架かる呉服橋と鍛冶橋との間に新たな橋として八重洲橋が架けられた。橋の名は、日本橋区・京橋区(現在の中央区)から麹町区八重洲町に通じることから付けられた。 1890年(明治23年)、八重洲町一丁目を含む丸の内一帯の広大な土地が、三菱の岩崎弥之助に払い下げられた(いわゆる「三菱ケ原」「三菱村」である)。1892年(明治25年)、麹町区八重洲町一丁目1番地(現在は丸の内二丁目6番2号)に三菱一号館(建設当時は「第1号館」)が建設されたのを嚆矢として、馬場先門通り(馬場先通り)沿いには赤レンガ造のオフィスビルが並ぶようになり、「一丁倫敦」と呼ばれることになる。
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