八代時代
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八代では組頭副役を勤めたが、天保3年(1832年)閏11月、2月28日の和田宅酒会で上田紋吾が酒乱に及び、また禁酒処分の園部貞右衛門を招いたことが藩に咎められ、御役御免となった。更に天保4年(1833年)11月には、1月23日養子土之助と嫡女が家出したことに対し、教育不行届として逼塞を命じられた。 11月、松浦某に代わって八代御城附組脇として復帰し、弘化3年(1846年)8月には精勤に付き紋付上下一具を賜った。また、次女が熊本の大西弥左衛門に嫁ぐなど、慶事が続いた。 しかし、嘉永2年(1849年)閏4月、ある女性の空言を藩に讒言されたことで、佐敷御番への転勤を命じられた。4月19日から5月20日まで、新たな養子喜太郎と共に謹慎したが、謹慎中、家人が城主松井勝敬の家人と喧嘩を起こす騒動があった。
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