肥後八代時代とは? わかりやすく解説

肥後八代時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 06:56 UTC 版)

名和氏」の記事における「肥後八代時代」の解説

顕興は九州下向以後南朝方として振る舞い元中7年/明徳3年1387年)には征西大将軍良成親王後征西将軍宮)を高田郷迎え高田御所置いた。だが翌元中8年/明徳4年1388年)、顕興は九州探題今川了俊に膝を屈し南朝方の最後となった組織的抵抗終える(折口信夫この頃名和氏一族の中で琉球国佐敷渡り第一尚氏になったとの説を唱えている[要出典])。 顕興の後、名和氏17代教長・18代義興と2代わたって家中内紛生じた長禄3年1459年)に義興が弑逆しぎゃく)されると、いまだ幸松丸という幼名名乗っていた顕忠が相良氏の許へ身を寄せ11相良長続援助によって寛正6年(1465年)、古麓城帰還し19当主となる。 顕忠はこのとき、領国復帰尽力してもらった謝礼として八代郡高田郷相良氏割譲した文明8年1476年)、相良氏薩摩国出兵した隙に顕忠は高田郷押領ようとするが、葦北衆の来援によりこの企て失敗する。しかし当時相良氏12当主相良為続激怒し再三わたって八代攻撃した。 同16年1484年)、相良軍によって古麓城陥落し、顕忠も追放された。その身柄阿蘇氏監督下に置かれ同年、甥の菊池重朝討とうとして赤熊戦いで重朝軍に敗北し同じく阿蘇氏監督下に入った宇土為光懇意になり、縁戚関係となる。 明応8年1499年)、為続が肥後国守護菊池能運対立して豊福合戦敗れ、能運に加勢していた顕忠は念願八代奪回する。しかし為続は、文亀元年1501年)に為光から守護の座を追われた能運を保護し文亀3年1503年守護職奪回の兵を起こして為光を攻め滅ぼしそのまま八代攻める。為光に味方していた顕忠は古麓城追いつめられ、やがて追い落とされる。顕忠の所領わずかに益城郡守富庄のみとなり、再び阿蘇氏監督下に入って木原城移った

※この「肥後八代時代」の解説は、「名和氏」の解説の一部です。
「肥後八代時代」を含む「名和氏」の記事については、「名和氏」の概要を参照ください。

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