肥後医育史
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正史746ページ、補遺132ページに及ぶ大著である。2006年に再版された。肥後医育250年周年記念事業実行委員長・山本哲郎による 藩校時習館の創立は宝暦四年、その六年には「再春館」が創立された。当時の殿は細川重賢。場所は二本木である。教師は岩本原理、村井見朴、外に句読師、金創師、引経師、物産師、医療吟味役、など書かれ最後は明治3年とある。、その後、古城医学校、通町病院、北岡仮病院、県立熊本医学校、(教師に後に東京大学初代小児科教授になった弘田長がいる)、伝習館、春雨こう、九州学院医学部、私立熊本医学校、熊本医学専門学校、熊本医科大学、と歴史に沿って記述されている。 東京大学名誉教授土肥博士は「之を通覧するに名は一地方の医学史に過ぎないが、実は側面から観た近世日本医学史たる貴い価値が認められる。(中略)またその公務の寸暇を偸んで更にこの大著を完成したるその絶倫の精力と縦横自在の筆致別けても国を愛し道を憂うる至情は真に敬服に余りある」、と絶賛している。 エピソードも豊富で、「辻便所と肥後の医育」の稿では、明治5年東京府を始め全国各地の街路上の大小便を禁じた白川県(現熊本県)で、教師マンスフェルトが辻便所をおくべく提案された。古城医学所は有料便所をつくり、(汲み取り料を農家からもらう)他の病院もならったが、北岡病院の事務係古賀氏は「小便古賀」というあだ名がついた。有料便所は明治20年熊本区(熊本市)に委譲した。辻便所は肥後の医育に多大なる貢献をしたとある。
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