肥後医育史とは? わかりやすく解説

肥後医育史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 05:41 UTC 版)

山崎正董」の記事における「肥後医育史」の解説

正史746ページ補遺132ページに及ぶ大著である。2006年再版された。肥後医育250年周年記念事業実行委員長山本哲郎による 藩校時習館創立宝暦四年、その六年には「再春館」が創立された。当時の殿は細川重賢。場所は二本木である。教師岩本原理村井、外に句読師、金創師、引経師物産師、医療吟味役、など書かれ最後明治3年とある。、その後古城医学校通町病院北岡仮病院、県立熊本医学校、(教師に後に東京大学初代小児科教授になった弘田長がいる)、伝習館春雨こう、九州学院医学部私立熊本医学校熊本医学専門学校熊本医科大学、と歴史沿って記述されている。 東京大学名誉教授土肥博士は「之を通覧するに名は一地方医学史に過ぎないが、実は側面から観た近世日本医学史たる貴い価値認められる。(中略)またその公務寸暇偸んで更にこの大著完成したるその絶倫精力縦横自在筆致別けても国を愛し道を憂う至情真に敬服余りある」、と絶賛している。 エピソードも豊富で、「辻便所と肥後の医育」の稿では、明治5年東京府始め全国各地街路上の大小便禁じた白川県(現熊本県)で、教師マンスフェルト辻便所をおくべく提案された。古城医学所有料便所をつくり、(汲み取り料を農家からもらう)他の病院ならったが、北岡病院事務古賀氏は「小便古賀」というあだ名がついた。有料便所明治20年熊本区熊本市)に委譲した辻便所肥後医育多大なる貢献をしたとある。

※この「肥後医育史」の解説は、「山崎正董」の解説の一部です。
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