辻便所と肥後の医育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:20 UTC 版)
白川県(現在の熊本県)には参事山田武甫、権参事に嘉悦氏房、水島貫之あり。共に横井小楠門下の俊秀で大いに進取的文化施設をなしつつあった。熊本においては古城(ふるしろ)医学校兼病院に命じて対策をとらせた。そこにはマンスフェルトがおり、欧州先進国の例を汲みて、辻便所を設けるべく提案された。古城病院では無理であったので、水島貫之は農家に命じてくみ取り料を徴収させることを考えた。すなわち熊本市を4区にわけて監督させる。大きい所は大小用、小さい所は小専用としその数50か所。一荷を7銭ないし8銭とした。(1年1か所を3円ないし3円50銭)当時北岡病院(通町病院の後身で、医学生の教育をしていた)が作り公衆便所とした。これは相当、病院を経済的に潤したようで、北岡病院の事務員古賀信一郎は小便古賀とあだ名された。しかし、辻便所は1896年(明治29年)に127か所を725円で熊本区(現在の熊本市)に売り渡され、収入が減ったため医学教育を辞めざるを得なかった。熊本県庁文書、熊本市役所文書、田代家文書などにも残っている。
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