嘉悦氏房とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 近代日本人の肖像 > 嘉悦氏房の意味・解説 

嘉悦氏房 かえつ うじふさ

嘉悦氏房の肖像 その1
天保5年明治41年10月30日1834~1908)

生年天保4年(1833)とする説もある。熊本生まれ。政治家。横井小楠に学ぶ。維新後地方県令歴任その後在野政界投じ地域振興を図る。緑川製糸所や広取黌を設立明治13年(1880)県会議長15年(1882)には熊本県九州改進党結成した26年(1893)衆議院議員九州の鉄道敷設尽力。娘の孝は女性教育者で、女子商業学校(のちの嘉悦学園)創立者

キーワード 政治家

(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の近代日本人の肖像」の内容を転載しております掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)

嘉悦氏房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 03:26 UTC 版)

嘉悦氏房

嘉悦 氏房(かえつ うじふさ、天保5年(1834年)1月 - 明治41年(1908年10月30日)は、日本政治家

経歴

熊本藩士の子として肥後国託麻郡本山村(現在の熊本県熊本市)に生まれ、横井小楠に師事した。その後、宮部鼎蔵に従って尊王運動に参加。たびたび上京して、橋本左内坂本龍馬西郷隆盛らと交わった。

明治維新後、熊本藩は新政府に反旗を翻そうとしているとの嫌疑をかけられたが、氏房が長崎に赴いて知事の澤宣嘉に釈明して事なきを得た。明治3年(1870年)5月、民部省に出仕し、7月に大蔵省に移った。9月に胆沢県大参事に就任し、その後、熊本県少参事、八代県権参事を歴任した。明治6年(1873年)、白川県権参事となるが、権令の安岡良亮と対立し、野に下った。

官を辞して後は本山村の自邸で「広取黌」(通称広取英学校)という洋学校を開き[1]内田康哉(後の外務大臣)・林田亀太郎(後の衆議院議員)・亀井英三郎(後の警視総監)らが学んだ。また製糸事業や製茶事業も興している。

明治12年(1879年)、熊本県会議員に当選し、翌年に議長となった。明治15年(1882年)、山田武甫前田案山子らとともに九州改進党を結成した。明治20年(1887年)には九州鉄道の設立発起人に名を連ねている。

明治26年(1893年)、衆議院議員となり、一期務めた。

明治41年(1908年10月30日脳溢血により千駄ヶ谷の自邸で死去した[2]

家族

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『大宰相・原敬』福田和也 - 2013, p315
  2. ^ 大植 1935, 1092頁.

参考文献

公職
先代
安場保和
胆沢県知事(大参事)
第3代:1870年 - 1871年
次代
不在


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「嘉悦氏房」の関連用語

嘉悦氏房のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



嘉悦氏房のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
国立国会図書館国立国会図書館
Copyright (C) 2025 National Diet Library, Japan. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの嘉悦氏房 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS