清崟太郎
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清 崟太郎(せい きんたろう、1874年〈明治7年〉3月3日[1] - 1921年〈大正10年〉5月29日[2])は、衆議院議員(立憲政友会)。
経歴
静岡県富士郡柚野村(現在の富士宮市)で酒造業を営む清家の四男として生まれた。1903年(明治36年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、中央新聞の記者となった[3]。その後、東京市長尾崎行雄の知遇を得、市長秘書役に抜擢された。
1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その他、東京市会議員も務めた[1]。
脚注
参考文献
- 細井肇『現代日本の政治家』国光社、1916年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
外部リンク
- 『清崟太郎』 - コトバンク
- 清崟太郞 (第4版) - 『人事興信録』データベース
- 清崟太郎のページへのリンク