南朝方として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 02:25 UTC 版)
『浪合記』(天野信景の著書とされる)によると、満義の嫡子の政義は信濃国で南朝方を率いた宗良親王(後醍醐天皇の皇子)に仕えて世良田郷を離れる。しかし至徳2年(1385年)に、庶長子の親季とともに信濃国浪合村(長野県下伊那郡阿智村)で戦死してしまったという(浪合の合戦)。政義の次男の万徳丸(政親)も戦に参加していたが、この時は難を逃れた。その後、永享8年(1436年)になって三河国松平郷に隠れ住んでいたのを発見され、捕えられたのち出家し四国へ渡った[要出典]。嘉吉の乱後、上野国万徳寺で修行していたが、文正元年(1466年)10月に没したという。 政親には男子がなく、世良田郷領主の世良田氏嫡流はここに断絶した(政義には庶子の政満(義秋)もおり、ともに浪合の合戦で散ったという)。親季の子に、有親がいたという説もあり。 清水昇『消された一族』によれば、政親の娘の子・脇屋義則(新田義宗を父とする)が世良田の名跡を継いだという。義則の討死ののち、子・新田祐義は下野国真船村に住み、子孫は武田氏などに仕えたが、徳川家康の台頭に伴い真船氏を称した。真船氏の一部は戦国時代に陸奥国会津郡に移って瀬良田氏を称したとされる。 支族の江田氏は、新田宗家の命により丹波に派遣されていたが、細川氏のちには波多野氏に従うようになり丹波綾部の豪族として安土桃山時代まで命脈を伝えた。 なお、江戸後期に編纂された南山巡狩録(元中二年(1385年)三月条所引『藤沢山録記』)によると、浪合の合戦には一族の有親(系譜関係は諸説あり)も加わっていたという。『徳川実紀』では、この有親を松平氏の祖としている。
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