那珂郡西金高井釣の川野辺氏とは? わかりやすく解説

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那珂郡西金高井釣の川野辺氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/12 04:28 UTC 版)

川野辺氏」の記事における「那珂郡西金高井釣の川野辺氏」の解説

建武3年1336年1月南北朝戦いで南朝総大将 楠木正家楠木正成の甥)が、南朝荘園があった常陸国入部し瓜連城を拠点したため南朝方に同心する那珂・川野辺氏一門もこの地で楠木とともに1年間北朝方の佐竹氏及び周辺諸勢力激しく戦った。 しかし、楠木正家従い戦った惣領那珂通辰と川野辺資鎮は、延元元年1336年)、独松峰における戦いで北朝方に敗れ北朝方の木村二郎大夫義昌の手勢により追い詰められていき、那珂氏、川野辺氏平沢氏、戸村氏など一族の殆どは自刃して滅亡憂き目に遭うものの、那珂通辰の子である那珂通泰と川野辺光計が、久慈川さかのぼり山方町秘境高井釣」に落ち延び家系を保つことができた。宗家那珂通泰はその後佐竹氏軍門下り足利方に属して石見国戦いにて軍功挙げる一方川野辺氏そのまま南朝方として戦った。資鎮の子 次郎九州菊地直に属して功を立てるものの、吉野にて討ち死にしたという。次郎の子 通保も南朝方として常陸国にあったが、その子 通弘の代に至って北朝方の佐竹義敦降り佐竹家となったとされるその四隆義の代に久慈郡西金住んだとされる

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