那珂郡西金高井釣の川野辺氏
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「川野辺氏」の記事における「那珂郡西金高井釣の川野辺氏」の解説
建武3年(1336年)1月、南北朝の戦いで、南朝の総大将 楠木正家(楠木正成の甥)が、南朝の荘園があった常陸国に入部し、瓜連城を拠点としたため、南朝方に同心する那珂・川野辺氏一門もこの地で楠木党とともに1年間、北朝方の佐竹氏及び周辺諸勢力と激しく戦った。 しかし、楠木正家に従い戦った惣領の那珂通辰と川野辺資鎮は、延元元年(1336年)、独松峰における戦いで北朝方に敗れ、北朝方の木村二郎大夫義昌の手勢により追い詰められていき、那珂氏、川野辺氏、平沢氏、戸村氏など一族の殆どは自刃して滅亡の憂き目に遭うものの、那珂通辰の子である那珂通泰と川野辺光計が、久慈川をさかのぼり山方町の秘境「高井釣」に落ち延び家系を保つことができた。宗家の那珂通泰はその後、佐竹氏の軍門に下り、足利方に属して石見国の戦いにて軍功を挙げる一方、川野辺氏はそのまま南朝方として戦った。資鎮の子 次郎は九州の菊地武直に属して功を立てるものの、吉野にて討ち死にしたという。次郎の子 通保も南朝方として常陸国にあったが、その子 通弘の代に至って北朝方の佐竹義敦に降り、佐竹家臣となったとされる。その四世 隆義の代に久慈郡西金に住んだとされる。
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